2018年10月28日

『三度目の殺人』

データ
『三度目の殺人』

評価:☆☆☆☆☆・・・・・
年度:2017年
鑑賞:2018年BS/CSで視聴。
監督:是枝裕和
俳優:福山雅治(重盛朋章弁護士) 蒔田彩珠(重盛結花=朋章の娘) 役所広司(三隅高司) 
   広瀬すず(山中咲江) 斉藤由貴(山中美津江=咲江の母) 市川実日子(篠原一葵検事)  
   満島真之介 吉田鋼太郎 橋爪功 松岡依都美 品川徹 根岸季衣 高橋努 小倉一郎 
   中村まこと 井上肇  
製作国:日本
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『三度目の殺人』

予告より


批評

映像作家是枝監督の実力は十分に認めています。
原作のある『海街diary』でも、そうでない『万引き家族』でも、その才能は遺憾無く発揮され、傑作を生み出しました。

しかし、すべての作品がそのレベルで仕上がるとは限りません。
『そして父になる』や本作ではそのエンジンにトルクがかからずタイヤが空転したと私は感じました。

昨年本作が公開されたとき、私は映画館に行く気が起きませんでしたが、今回『万引き家族』のカンヌ受賞を機に本作がBS/CSで放送されると知り、それならば見ておきたいと思いました。
その結果、直観が正しかったことが証明されてしまいました。

問題意識に溢れた意欲作ですから、そっとしておきたい気持ちもありますが、見てしまった以上、簡潔に批判したいと考えます。

一言で言うと、盛り過ぎ、欲張りすぎです。

『ニーチェの馬』は154分を費やして、荒野に住む父娘と馬を通じて世界の終末を描きました。
『アラビアのロレンス』は207分かけて、繊細な理想主義者の青年を通じて白人国家の傲慢を描きました。
『道』は115分を費やして、神と人の愛を知らない無知な男の悲劇を描きました。
では『三度目の殺人』は、125分かけて何を描いたのでしょう。私には的がたくさん見えました。誤解でしょうか。


中で是枝監督がもっとも描きたかったことは裁判批判だと私はみました。
「裁判は真実の追求ではなく、利害の調整になっている」という劇中のセリフが本作の核心でしょう。
その裁判の惨状を体現しているのが重盛弁護士で、福山雅治さんが好演しています。

クールに選挙戦術だけを考える重盛弁護士に立ちはだかったのは、依頼人三隅高司。罪状は殺人罪。役者は役所広司さんです。
三隅高司は供述・説明を簡単に変えていく人物。彼の何が本当で何が嘘なのかわからず、弁護士は振り回されます。

選挙戦術(たとえば死刑が相当だろうという裁判で無期懲役を勝ち取りたいなどの)が成功すれば良いとする重盛にとって、勝つためには三隅の供述が変わっては困るのですが、そうはいかない。
そこで重盛は三隅の供述の信憑性を調査せざるを得なくなりますが、それは重盛が必要ないと考えていた「真実の追求」作業に他なりません。
裁判の本来の目的が「真実の追求」という正義であるならば、皮肉なことに、そこからもっとも遠かった重盛が「正義派」として仕事せざるを得なくなリます。
殺人容疑者三隅高司は、本質的にいえば、現状の堕落した裁判を矯正する役割を果たすわけです。

三隅の一度目の殺人事件を捜査した刑事は、三隅を「空っぽの器のような男」と評します。
空っぽの器は簡単に他者の難儀を自分のものとして殺人を代行することもあるかもしれませんが、
空っぽの器は、同時に、その不可知性無限性の虚無の中に他人を取り込んでしまうのかもしれません。

三隅の弁護士としての面会を重ねるうちに、重盛はしだいにその三隅の「罠」にはまっていきます。
映像がそのことをわかりやすく表現しています。
最後には二人の顔が重なるように映し出されるのですから。
(是枝監督の作品は映像による説明が多過ぎると感じることがありますが、ここは映像による必要な説明だったと思います。これだけならば、ですが。)


ここまで私の文におつきあい下さった方は、その設定の重さに気が付かれたと思います。
謎に満ちた虚無のような男と真実の追求に関心がなかった弁護士〜〜その二人の対決と同化という道筋だけでもういっぱいいっぱいだと思いませんか。
それを描くだけで125分のうち大部分を使えば良かったのだと私は考えます。
さぞや裁判の堕落した現状を監督の鋭い刃が切り裂いたことでしょう。


『三度目の殺人』

予告より


ところが是枝監督は欲張るのです。

吉田鋼太郎さんと満島真之介さんがそれぞれ弁護士を演じています。吉田さんは検事から弁護士に転身したいわゆるヤメ弁。意欲に乏しい。満島さんの役どころは経験の乏しい若手弁護士。
この二人、存在感ある熱演にもかかわらず、映画の本筋からは不要な蛇足になりました。たとえば満島さんは真実追求派弁護士なのですが、重盛弁護士は上述の通り三隅によって真実追求派に変えられてしまうのですから、満島さんの純粋な熱血は必要ありません。吉田さんは映画の風味付けになっていますが、その割に多くのセリフがあります。ただTV連続ドラマなら二人ともぜひ必要なことはよくわかります。

三隅の第二の殺人(容疑)の被害者は、広瀬すずさん演じる山中咲江の父でした。高校生の咲江は、もう長く父親から性的虐待を受けていたのです。その咲江の難儀、不幸をどうやら解決するための殺人であった模様です(本作では示唆されるだけです)。空っぽの器男である三隅の犯行動機ですから、山中咲江の存在は重要です。
けれど、咲江がいつも足を引きずっているその原因が生まれつきなのかそうではないのか、結局真相はわからないまま。咲江の足を不自由な設定にしたのはミスリードのためのミス、ではありませんか。念のため申しますが、広瀬すずさんの影がありながら凛とした姿の演技は秀逸でした。

母親斉藤由貴さんの出番がやや長いと感じました。母親の犯行であるとほのめかした三隅の供述は、父親の性的虐待を見て見ぬ振りを続けた母親へ三隅が振り下ろした鉄槌なのでしょうから、母親は重要な役柄ではあるのですが。ただ、斉藤由貴さんの演技は真に迫って見応えがありました。
裁判官に憧れていた、という三隅のプロフィールで観客はこの母親に対する「裁き」にも薄々気がつくわけです。
それにしてもこの空っぽの器の男は随分と頭が良いですね。

さて極め付きの無駄は重盛の娘のエピソードです。蒔田彩珠さんはお気に入りの子役ですので本作に登場するのは嬉しいのです。でも、扱いが中途半端で残念でした。
アメリカ映画の刑事物でもおなじみの、父親が仕事に熱中するあまり家庭崩壊してしまうパターンの踏襲なのですが、まず本作にそれが必要でしょうか。蒔田さんが演じる娘は、万引きで補導されて保護者として(別居中の、あるいは離婚した)父重盛を指名します。父を求めているというわかりやすいサインです。でも本作にこのエピソードがなぜ組み込まれるのでしょう。
終盤に、娘との和解のサインが示されます。重盛は三隅と出会ったことで人間らしさを取り戻し、実生活でも好影響を与えた、ということなのでしょうが、それなら重盛にとってたいへん重要なことですので、もっと娘との関係を深めて描いても良かったはずです。


咲江の父を殺害して焼いた跡が十字架形に焦げていましたが、それだけではなく、十字(クロス)のモティーフが随所に登場します。
三隅は「生まれてこなければよかった人間もいるのです」と重盛に語るのですが、十字架形はその三隅による「裁き」を象徴しているのでしょうか、または犯した罪への赦しを得る象徴なのでしょうか。
唐突にキリスト教のサインが出され、私には監督の意図がわからなかったのです。この点は単に私の不明によるものかもしれません。


最後に、タイトルの解釈です。
三隅による咲江の父殺しは彼にとって二度目の殺人です。
裁判で三隅は咲江を巻き込まないように配慮し、自分の罪を認めました。これは死刑判決を意味しますし、事実そうなりました。
これを三度目の殺人と呼んでいるのでしょう。
真実がよくわからないまま死刑判決が下される、、、つまり
本作は死刑制度に対するアンチテーゼになろうともしているようですが、やはりこれまた欲張りすぎではなかったでしょうか。
なお、殺人行為の後三隅は頰の返り血を拭うような仕草をします。
終盤で、三隅に死刑判決が下された後、重盛は同じ仕草をします。
重盛も、自分が絞首刑のボタンを押した気になったのでしょうね。
しかしわざとらしいと感じました。


是枝さん、生涯に監督できる映画の本数は確かに限られていますが、
総花的な作品は観客の印象がかえってぼんやりしてしまいます。
TVの連続ものと映画とは、やはり異なる媒体だと思うのですよ。




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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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