2018年04月30日

『夢売るふたり』

『夢売るふたり』

データ
『夢売るふたり』
評価:☆☆☆☆☆☆・・・・
年度:2012年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:西川美和
俳優:松たか子(市澤里子) 阿部サダヲ(市澤貫也) 田中麗奈 鈴木砂羽 安藤玉恵 木村多江 江原由夏 
   伊勢谷友介 古舘寛治 小林勝也 香川照之 笑福亭鶴瓶(堂島哲治)
製作国:日本
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パンフレットより









コメント

曖昧に煙る空から、
美和さん作の、
嘘の映画の鳥が、
また地面に舞い降りた。



これまでついた嘘を一つ二つ、、と
数え歌にしてみますか、皆さん。

自分が吐いた嘘が
まわりまわり
巡り巡って
自分の身と心を侵した経験を数えてみましょう。


ひとつ
ふたつ


カラビサ『数え唄』



批評

西川美和監督の作品をみるのはこれで三本目になります。
今作でも嘘に集い、嘘にたゆたう人々の曖昧な物語で楽しませてくれました。

『ゆれる』では兄弟間の嘘のキャッチボール。
兄の嘘は保身、弟の嘘は利己。
とらえ損なうのはどっち?

『ディア・ドクター』では、偽医者がくりだす嘘の連続技。
しかしその嘘は、保身であるよりも優しさの嘘。
それは罪なのか、と問いかける。

『夢売るふたり』、夫婦で仕掛けるのは実利目的の嘘のトラップ。
自分たちの夢の実現のための利己的な嘘。
知恵は十分だが、覚悟は不足。
その嘘がまことの意味を帯びはじめると、嘘は諸刃の剣となる。

夫婦役は松たか子さん(市澤里子) と阿部サダヲさん(市澤貫也) 。
なるで本当の夫婦のようです。
阿吽の呼吸も齟齬も。

覚悟と知恵と無償の優しさが伴ってはじめて、
嘘はリアルな現実に永続的な効果を発揮するのだけれど、
そのどれかが欠けた嘘は、いずれ
人間の関係性を血を流しながら切り裂いて行く

この、「嘘の呪詛返し」のマイナスパワーを、
これでもかとばかりに見せつける妻市澤里子の目と口の表情。
これがこの映画の最大の見所なのだが、

しかし観客が日頃から利己的な嘘をつきたおしている人なら、
この映画をつまらないと切り捨てるだろう。
ありふれた自分の日常を映画館でみたくはないし、
彼らは嘘の呪詛返しを潜在意識で怖れているから、
松たか子さん、いえ市澤里子の目力が届かないようぼかしフィルターをつけて映画をみる。
だから最大の魅力を見逃してしまうのだ。

私は利己的で常習的な嘘つきではないけれど、
嘘をつかない人生を貫いたわけではないから、
本作は『ゆれる』ほどのインパクトは無かった。
薄いフィルターを着用したかもしれない。



興信所の探偵堂島哲治(笑福亭釣瓶さん)と夫市澤貫也は、
エピローグ近くで、呼吸を合わせて嘘をつき合う。
探偵の嘘はプライドを守るため、
貫也の嘘は、子供を守る優しさとも解釈できるが、
妻を巻き込まないため、
夫婦の地獄を清算するため、
の自己犠牲ともとれる。

ようやくここで嘘は理想の嘘、無償の嘘となった。
夫は刑務所で給食を作り、妻はフォークリフトを操って働く。
二人は同じ空を見上げる。

夫婦の関係は再生への道を歩むことになる。
かもしれない。



この写真のような映画なのです。途中経過はともかく、いちおうハッピーエンドの。  


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2018年04月29日

『阪急電車 片道15分の奇跡』

データ
『阪急電車 片道15分の奇跡』
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2011年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2017年BS/CSで再視聴。
監督:三宅喜重
脚本:岡田惠和
原作:有川浩
俳優:中谷美紀 宮本信子 南果歩 戸田恵梨香 芦田愛菜 高須瑠香 谷村美月 有村架純 小柳友 勝地涼 
   玉山鉄二 相武紗季 鈴木亮平 大杉漣 安めぐみ
製作国:日本
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パンフレットより



コメント

「人はそれぞれ皆
 いろんなやりきれない気持ちを抱えて生きている
 死ぬほどつらいわけではないけれども
 どうにもならない思いを抱えて生きている
 そして、その気持ちは誰にも言えないのだ」


 でも、もし言えるなら?


中谷美紀さんや宮本信子さんのすっくとした演技、
南果歩さんのみごとな地味さ。
これらベテラン役者にからんで、
戸田恵梨香さん、芦田愛菜さん、高須瑠香さん、谷村美月さん、有村架純さん、小柳友さん、勝地涼さん、玉山鉄二さんなどの若手が
演出の意図を理解してそれぞれの役割をきちんと果たし、
群像劇が静かにバラバラに展開しながら、
やがて人と人とのつながりを浮かび上がらせる手法が、
ほぼ狙い通り成功した作品のように見受けました。

かすかな、いっときだけの出会いが、
傷ついた人を救うこともあるという夢を見せてくれます。

このような他人どうしの偶然の出会いなどあり得ないと看る方もおられるでしょうが、
阪急電車なら、中でも今津線なら起こるかも知れない、
と思わせるところがうまいと思いました。

各駅や沿線の風景描写も見所です。

妻の妹がエキストラ参加し、後ろ姿が写っているところも見所です。(なんでやねん)







少し思い出話をお許しください。

私は3歳からの12〜3年間、西宮市仁川四丁目、聖クララ会修道院の向かいに住んでいました。
ですから、電車と言えばまずこの今津線の阪急電鉄が思い出されるのです。

小学1年生になった私は、甲東小学校に通うために阪急電鉄今津線に乗車することになりました。
今津線仁川駅から甲東園駅まで一駅だけですが、定期券がちょっと嬉しかったような。

ほどなく校区が再編され、関西学院大学の近くに上ヶ原小学校が開設され、
私たちの学年の一部は移籍することになり、その後は徒歩通学。
阪急電鉄今津線の定期券にさようなら。

でも、中学1年生から高校1年生までは再び仁川駅から阪急電車に乗って神戸方面に通学することになりました。

その頃の今津線はまだかなり古い車両も使われていました。
800系とか900系とか言うのでしょうか、
使い込まれて味のある古びた車両で、扉付近の座席の仕切りがやたら高く、
そこに設置されたポールが新型車両よりうんと短かったことを、なつかしく思い出します。
ややくたびれたシートの色が美しい緑色でした。

西宮北口駅構内では神戸線と今津線が平面で交差していて、
そこを通過する時の独特のリズミカルな音は、
西宮北口駅で乗り換える中学生の私の耳にもよく聞こえ、
いまも忘れられません。

車窓から外の風景を眺めるのがとても好きな少年であった私は、
映画の登場人物の一人権田原美帆さんのように、
軌道沿いに咲く野草の花に目を奪われていました。

昭和三十年代の、通勤通学時間帯の車内はひどい混雑でした。
でも私は不愉快な思いをした記憶がありません。
乗客全員の身体がへしまがるような急ブレーキも何度かありましたが、
みんな穏やかに助け合って乗車していたように思います。

いま思い出しました。
ある日、中学生の私の帰宅途上。
西宮北口駅から乗る乗客がやたら多く、車内になだれ込みます。
私の目前に、胸の大きな高校生のおねえさんが。
つぶされそうな混雑状態でしたが、私は両手を扉だったかに踏ん張って支え、
おねえさんに触れないように頑張りました。
脂汗くらい垂らしていたかもしれません。
するとその見知らぬおねえさんは、
私に向かって実に上品にニコッと笑いかけてくれました。
まるで自分が痴漢でもしているかのような、故のない罪悪感を感じていたものですから、
その笑顔はしばらく私の宝物になりました。

鎖骨骨折をして、上半身にサイボーグのように石膏ギプスをはめ、
それを詰め襟で隠して通学していたときだけは、
さすがにからだ触れ合った周囲の乗客からギョッとされましたけれど(笑)。


bellwood1975さんの動画



この映画の時代設定は、私が乗っていた時代のように古いわけではなく、
映画制作時点より少し前くらいの阪急電鉄今津線乗客たちの、心のふれあいを描いていますから、
使われる車両もはるかに新しくなっています。
(とはいえ、3000系という、もう廃車された車両を使っているそうですが)
もちろん西宮北口駅の平面交差もなくなった時代です。

けれど、あの昭和の時代の今津線の雰囲気がまだ残っているかのような、
心がふくらむような想いで映画を楽しむことができました。

そういうわけで、
評価の☆の数も一つくらいは上増ししているかもしれません。




阪急西宮ギャラリーにて


本作品の電車の乗客には、
今日のメシ代をどうかせぐかと思い悩んで目が吊り上がっている人も、
憎悪に凝り固まって心に匕首を忍ばせている人も登場しません。
今津線にはそういう人々は少ないとはいえ、
やはりもちろん描かれている内容は絵空事と言えます。
劇中のセリフを借用すれば、「人生のちょっとした機微」が描かれているに過ぎません。

阪神競馬が開催される曜日には、車中の雰囲気が少々殺伐とする時もあります。
しかしこの映画にはそんな場面はありません。

また、阪神競馬場がかつて巨大な軍需工場だったため、仁川一帯を中心に激しい空襲があったこと、
そのためだったのでしょう、私の家の周囲にまだ防空壕の穴が残っていたこと、
そしてあの高畑勲監督の『火垂るの墓』で、兄と妹が肩寄せ合って生きた防空壕も、今津沿線の山沿いという想定だったこと、
仁川駅から十分も歩けば、阪神・淡路大震災によって大規模な地滑りが起きた、元は住宅地であった斜面に行きつけること、
そんな過去の悲劇が、本作品に反映されることはありません。


それでも、ステキな映画です。
繰り返しになりますが、
大輸送路線では起こりえず、皆が顔見知りのようなローカル線でも起こりえず、澄ましこんだエリート路線でも起こりえないできごとの連鎖が、
ここ阪急今津線ならあり得るかも知れないと思わせる、小さな小さな温かい映画でした。

あと十年もすれば、また見たくなるでしょう。
その時も、ホームでの高須瑠香さんと中谷美紀さんのやりとりに、
思わず涙するでしょうか。






なお、冒頭のカフェシーンをはじめ、
今津線だけではない、三宮や神戸港付近の映像も映りますので、
地元民は、ここはどこだ、のあてっこをしても楽しめます。
さらに付け加えるなら、
やはり関西学院大学キャンパスの美しさは比類が無い、と、
卒業生でもないのにしみじみ感じました。


「聞いてもいないのに教えてくださってありがとう。」(樋口翔子)
  


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2018年04月28日

『ナバロンの要塞』

データ
『ナバロンの要塞』(THE GUNS OF NAVARONE)
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:1961年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。以後ビデオで数回。2011年にスクリーンで再鑑賞。
監督:J・リー・トンプソン
原作:アリステア・マクリーン
脚本:カール・フォアマン 
音楽:ディミトリ・ティオムキン
俳優:グレゴリー・ペック(キース・マロリー大尉)  デヴィッド・ニーヴン (ミラー伍長)
   アンソニー・クイン(アンドレア・スタブロス大佐)  アンソニー・クエイル(フランクリン少佐)
   スタンリー・ベイカー (ブラウン無線兵)   ジェームズ・ダーレン(パパディモス一等兵)
   イレーネ・パパス(マリア)   ジア・スカラ リチャード・ハリス 
製作国:アメリカ
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コメント

2011年の午前十時の映画祭で、「ブラックサンデー」、「ナバロンの要塞」と二週続けてドキドキハラハラ映画を観てきました。

二作に共通するのは、いわゆる冒険/サスペンス物映画として、時代を画する作品であったということでしょう。
言い換えれば、その後の冒険映画製作に大きな影響を与えたということになります。

中で「ナバロンの要塞」は、原作者アリステア・マクリーンさんのノンストップな語り口のおかげもあって、以後のジェットコースタームービーの基本を作ったと言っても良いのではないでしょうか。
現代の若者が観れば、ゆったりしたテンポで進んでいるように感じられるかもしれませんが、当時はこの作品のドンデン返しの連続に観客は翻弄されたものです。
私の場合、初見は小学校高学年。心臓が飛び出しそうでしたよ。

英国の冒険小説作家アリステア・マクリーン、を知ったのは亡兄のおかげです。
兄の本棚にずらりと並んだハヤカワノヴェルズ。マクリーンさんやハモンド・イネスさんの著作を読むことは、中学・高校時代の私をいつもワクワクさせる読書体験でした。
流行作家となって濫作になった著者は、次第に凡庸な作品しか産まなくなり、いつしか世間からも忘れられてしまったようですが、デビュー作にして最高傑作の『女王陛下のユリシーズ号』、あるいは『八点鐘が鳴る時』、そしてこの『ナバロンの要塞』は、現在でも十分通用する娯楽小説だと思います。

話題を映画に戻します。
ストーリーの一部をwikipediaの記述を借用して書き留めておきます。
ここに書かれた「巨砲」こそ、原題の「GUNS」なのです。
マクリーンさんによる完全なフィクションですが、よくできた設定です。

「第二次世界大戦中の1943年、イギリス軍の将兵2,000名がドイツ軍占領地に囲まれたギリシャ・エーゲ海のケロス島で孤立した。しかしそこから海路脱出するには、その南にあるナヴァロン島に配備された2門の巨砲の射程内を通過しなければならない。ナヴァロンの巨砲にはすでに巡洋艦や駆逐艦が何隻も撃沈されており、この巨砲を無力化しない限り、ケロス島からの脱出は不可能だった。
イギリス海空軍は何度もナヴァロン攻撃を試みたが、その巨砲は岩肌をくりぬいて作られた穴に設置された難攻不落の要塞に置かれており、爆撃も空挺降下もことごとく失敗してしまう。万策尽きたまま、ドイツの総攻撃まであと1週間というときに投入された最後の部隊が世界的な登山家マロリーの率いる一隊だった。彼らは、登攀不能と思われているためそこだけドイツ軍の警備が行われていないナヴァロン島南面の400フィートの断崖をよじ登り、島に侵入しようというのである。」wikipedia
※400フィート=約122メートル


俳優もまた素晴らしい作品です。
そのうち、特に重要で、しかも私が好きな二人だけ紹介させてください。

『ローマの休日』『西部開拓史』『オーメン』でおなじみのグレゴリー・ペックさんは米国人で、西部劇にも似合うのですが、イングランドやアイルランドの血を引いているせいか、知的な英国人の風情を醸し出すのも上手な多面性のある俳優です。リベラル派俳優の代表のような人物で、周囲から大統領に立候補するよう熱心に勧められていたことはよく知られています。この勧めに対して、「役で演じるだけで十分」と答えたと伝わります。上述の『女王陛下のユリシーズ号』を映画化するなら、主役はグレゴリー・ペックしかいないね、と亡兄と私のキャスティングは一致していました。
本作『ナバロンの要塞』で彼は、ニュージーランド出身の世界有数の登山家を演じます。ナチスが陣取る地中海の島ナバロンを少数精鋭で攻略するには、警戒の緩やかな断崖絶壁を登るしかないという訳で、連合軍は今は軍人である彼に白羽の矢を立てたのでした。大げさな演技はしませんが、眉の上げ下げ・寄せ方で感情を伝えることで、冷静な人物をうまく演じていました。

『道』『アラビアのロレンス』『その男ゾルバ』でおなじみのアンソニー・クインさんはメキシコ出身。(アングロサクソンから見て)エキゾティックで荒削りな風貌は、インディアン,ベドウィンやギリシア、イタリア系など、「異境」の豪放または粗野な人物の役を演じることが多かった人物です。見かけと裏腹に(失礼)繊細な表現もできる名優です。本作『ナバロンの要塞』で彼は、ナチス・ドイツなど枢軸国によって占領されたギリシア軍の大佐で、いまはパルチザンとして枢軸国側(日本もこのグループでした。念のため。)にゲリラ活動を仕掛けています。今回のナバロン(架空の島)はギリシア沿岸の島という設定のため、精通する彼が呼ばれたのです。不屈の男で怪力。グレゴリー・ペックさん演じるマロリーとはかつて一緒に戦った仲間。マロリーは彼(アンドレア)に全幅の信頼を置いていますが、実はその戦いの折に、マロリーが情けをかけて命を助けた敵が、アンドレアの妻子を殺害するという事件がありました。アンドレアは、戦争が終わったらマロリーを殺す、と公言していて、マロリーもそれを受けると答えています。そういう関係の二人が同じ特殊部隊の仲間となって困難な任務に立ち向かうのです。この前提が、純然とした娯楽作品である本作に仕掛けられた陰影になるのです。




激しくネタバレしますと、上の写真は、特殊部隊に協力してきた美しい島の娘が、背中にあるはずの拷問の傷跡が無いことから、実は敵方のスパイであることがわかった瞬間の映像です。娘とマロリーの間にはほのかな恋慕感情まで生まれていましたが、マロリーは過去の反省を踏まえて娘を殺します。それを見ていたアンドレアの表情・・マロリーを許す気になった一コマでしょう。これが戦争ですね。



さて、秀作とはいえ、このような娯楽作品に、正面から批評する必要はありません。
このまま終わっても良いのですが、
2011年に久しぶりにこの映画を観た時に切実な思いで書いた文章があります。
上述部分と多少の重複がありますが、
わずかな訂正を加えただけで再掲載したいと思います。
サブタイトルは<男のタテマエと戦争と>とでも言うような内容です。



批評

一般に男性はリアルな生活実感に基づかない建前(たてまえ)作りが得意です。
いえ、建前無しでは生きることが難しいと言っても過言ではありません。
建前はしょせん建前ですから、生活の必然から生まれることは少なく、虚構としか言えない規範に命を捧げてかえって世間様に迷惑をかけることもしばしば起こります。
とはいえ、男性優位の社会で男性にかっこ良さがもしもあったとすれば、それはその建前に殉じる気合いの美しさではないでしょうか。
自分の思いだけに凝り固まった建前ならあまり美しくありませんし、まして他人の感動を呼びませんが、仲間や社会に自分を捧げているたぐいの建前なら、時に人の心を揺さぶります。

「ナバロンの要塞」に登場するのは、皆それぞれの建前に従って行動する男たちです。
そのような男たちに建前を捨てて足を地面につけてみようかと思わせる味付けが、ラブロマンスのエピソードとして挿入される映画もよくありますが、
この映画では、そういう要素はほとんど見当たりません。
建前に忠実にいそしみ、その建前の矛盾や衝突に悩む、いかにも男性特有のストーリーが展開します。
観客がこの物語に感動を感じるかどうかは、このことへの共感や憧憬が持てるかどうかにかかっています。


そういう意味では、今日の日本の現状は、良くも悪くも建前づくりがうまく行っていないように思えますから、若い男性にこの映画を薦めても、「話の展開はおもしろかったけど…」という消極的な感想が返ってきそうです。

原作者アリステア・マクリーンの最高傑作「女王陛下のユリシーズ号」などは、まさにこの建前を登場人物が共有し、その夢の中で男たちが滅びていく物語であって、共感を持って読めば深い感動が得られるのですが、もはやそれは無理な御時勢になっているのかもしれません。
その現況は「平和」がもたらしたものと看るのか、不況がもたらしたものと看るのかによってニュアンスは異なりますが、一見すると日本人特有(と日本人が考える)の付和雷同的性格から遠いようにも見えます。燃えてはいないですから。
しかし一方で、声高に威勢の良いせりふをアピールする誰か他人の建前に、ただ引っ張られていく危険を大いにはらんだ、<付和雷同的沈滞>の様にも思えます。おそらくこれが正解でしょう。

付和雷同は人類世界を破壊する、これは私の信念です。
男性が、各人ばらばらに建前を作り上げて行く強さが持てるよう、切に願います。


付和雷同と言えば、戦争はその典型のように思えます。
それはその通りで、この「ナバロンの要塞」に登場する男たちはすべて、大きな枠組みとして、ナチスドイツを中心にした枢軸国側に対抗する勢力に加担している軍人たちです。
したがって、いかに敵軍に打撃を与え、敵兵を殺すか、ここに事の成否がかかっていることは間違いありません。

しかし彼ら一人一人の戦争に対する建前が微妙に異なっています。
映画のストーリーは単純で、敵の強力な巨砲を擁する要塞をいかに破壊するか、その一点に向かっていく冒険/サスペンス映画です。
ところが、登場人物たちの戦争に対するスタンスや敵兵を殺すことに対する温度差が存在するため、集団は軋轢や危険をはらみながら進んでいくことになります。
この描写がこの映画を映画として鑑賞に耐える作品にしているのです。

映画の登場人物(男性)の建前の例をあげてみましょう。
なお、時代設定は第二次大戦中です。

Aは野心家の英国職業軍人で、この無謀な作戦の立案者。成否を自分の運の良さに賭けています。もちろんそれを可能にできる有能さを備えていますが、彼がこの作戦に関わる建前が自らの成功と昇進の実現であることにB,Cは気付いています。作戦中に大けがをした彼は、Bによって救助されると同時に、同じBによって作戦成功のコマとして利用され、捕虜となります。

Bは世界最高の登山家。ニュージーランド人。いまは招集に応じて軍務につき、Cと共にクレタ島で対独破壊工作に従事していました。元は民間人で、登山家として世界の人々と親交を結んでいた彼には戦争に対する姿勢の甘さがありました。敵兵の命を奪わずに解放したその結果Cの妻子を殺害されてしまうという失策をしでかしたのです。その経験から彼の戦争に対するスタンスは変わります。時には冷酷と思えるほどのシビアさで敵味方に対しますから、Aの朋友Dからは人非人扱いをされています。

Cはギリシア陸軍の大佐。ただしギリシアは現在独伊など枢軸軍によって占領されていますから彼に部隊はありません。クレタ島を本拠にしてゲリラ戦を統率しています。妻子を惨殺された恨みを晴らすため、必ず復讐するとBに宣言しています。つまり、CはいつかはBを殺すのです。しかし戦闘中は常にBを助け、部隊を助ける守護神のような活躍を見せます。原作と同様疲れを知らない強靭な男として描かれています。彼はこの戦争に対し、故郷ギリシアの奪還というきわめて切実な建前で向き合っているのですから、敵兵の命を奪うことにためらいをみせるはずがありません。戦争の酷薄さを誰よりも知っている人物です。

Dは爆破のプロの英国人。彼もまたBと同様応招兵です。自分の野心があるわけでもなく、祖国が壊滅したわけでもありませんから、どこか戦争が他人事です。いえ、他人事としてやりすごしていきたいという思いから、責任を背負う将校への昇進を頑に拒んでいます。最近行った大爆破作戦でも、隣接する孤児院の窓ガラス一枚割らなかったことが誇りです。これらが彼のスタンスであり、建前です。したがって、シビアな軍人であることを求める指揮者Bの所業に反発を感じ、ついに衝突するのですが、しかし最後の作戦ではBと二人で巨砲破壊作業に当たらなければならない立場です。

Eは優秀なエンジニア、機械のプロです。しかし同時に殺しの技術の訓練を受けていて、これまでこの戦争中に多くの敵兵をそのナイフの餌食にしてきました。軍、いや国家の建前に基づく要請で殺し屋に仕立てられたわけです。しかし彼はその殺人者の役割に押しつぶされ、もはや接近戦で敵を殺すことができなくなっています。彼をこの作戦に招集したAはこの事実を知りません。これに気付いたBは彼を重要な任務からはずしていきます。全体の建前=敵を無慈悲に殺せ、に自分を適応し損ねた人物というわけです。

Fはナバロン出身の兵士。パルチザンのリーダーは彼の姉です。島を飛び出してから音信不通であったようですが、どうやら彼は殺しに酔い、自分を最高の殺し屋と勘違いしてしまっているようです。したがって、彼にとって戦略的撤退などはあり得ず、ついには、敵を先に殺すチャンスがありながら、一対一の決闘の状態に持ち込みます。彼は自分が敗北することなど考えられなかったのです。のちにBは彼を「甘かった」と評します。






おわかりいただいたでしょうか、
この戦争全体の(連合国側は枢軸国を倒すべきだとする)建前はさておくとして、
ここでは一人一人の自分の戦争に対する建前と、
戦争と言う行為の(敵に情けはかけず油断せず、冷徹に殺害していくべきだとする)建前との、
距離や姿勢の違いが明らかです。
これこそがこの映画のテーマなのです。
いかによく敵を殺せるかということです。
その冷酷な行為に、自分の建前をどう適応させるか、
そこが生死の分かれ目であり、
それが戦争だと示唆しているのです。
製作・脚本を担当したカール・フォアマンさんが潜ませた仕掛けでしょう。 
(フォアマンさんは、米国で「赤狩り」に遭うようなリベラル派でした。)

もっとも、全体としてはサスペンス巨編ですから、
これらの心理的側面は十分に掘り下げられているとはいえず、
役者の演技をその点にこだわらせて深い感動を呼ぶような演出は行われていません。

しかしこの作品を、単なるノンストップ冒険ドラマというだけの観点だけで観なかった、かつての観客がいたからこそ、未だにファンが多い名作映画になったのでしょう。

かつての観客にとって、
全体の建前を守ることや自分の建前を作ること、
その大切さと矛盾が産む苦しさは、
自分の人生の中で自明であったからではないでしょうか。
ここにこの映画への理解と共感が生まれたのです。


男性が輝くためには各自の建前が必要です。
その建前が世界に広がる性質のものであれば一層すてきです。
私個人としては、世界から戦争がなくなる道に合致する建前が好きです。
しかし、その各自の建前を全体の建前に無理に合わそうとすると起こるのは悲劇ですし、
それが必要になった時には戦争という最大最悪の悲劇が始まっています。
この世からもし男性が消え失せたら、おそらく戦争は消滅するだろう、
という予感を抱くのははなはだ残念なことです。  


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2018年04月27日

『ぱいかじ南海作戦』

データ
『ぱいかじ南海作戦』
評価:☆・・・・・・・・・
年度:2012年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:細川徹
原作:椎名誠
主題歌:星野源
俳優:阿部サダヲ 永山絢斗 貫地谷しほり 佐々木希 ピエール瀧 浅野和之 斉木しげる 大水洋介
製作国:日本
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ポスターの青空はやたら青いのですが・・・


コメント

私たち夫婦は揃って沖縄が好きで、この映画の舞台となった西表島は特に愛する島です。
そんなわけでついつい映画館に行ってしまい、私は激しく後悔しました。
夫婦50割料金とはいえ、チケットを買って見たからには一言書いておきます。

この映像作品には、映画に対する敬意も西表島(沖縄)に対する敬意も感じられません。
こういう<映画みたいなもの>を作り、公開してはいけません。

原作は読んでいませんが、まず、映画の物語が安易です。
もちろんストーリーがなくても映像で真実に迫る優れた映画はありますし、
美しい景色を映し出すだけでもそれなりの価値はあるでしょう。
よくできたコメディーなら、ストーリーの真実味は無視していいでしょう。
しかしこの作品は全てにおいて欠けています。

具体例を一部だけ挙げます。

おそらく超短期間で撮影したのでしょう。
関西出身という設定の佐々木希さん演じるキミのセリフは、どこの言葉ともわからぬイントネーションでした。関西弁を練習していたとは思えません。
安直な制作です。

そして肝心の西表島の海が美しくありません。
好コンデションの日を待つ余裕も無かったのでしょう。

ただし曇り空なら曇りなりに海を美しく撮影できるはずですが、そういうプロの気構えも見られません。ただ目前の海という素材を撮影しているだけです。
監督なら、カメラマンなら女優を美しく撮ることに心血を注ぎます。
海岸というロケーションに頼っていながら海への敬意がないのです。

人間を落とそうとした落とし穴でイノシシ(カマイ)を捕え、殺してしまいます。
カネに困っていた主人公たちは、このイノシシを売ります。
服装から見て、季節の設定は夏場です。
西表島の夏はカマイの禁漁期です。
西表島の人々は、カマイを狩り、近隣の人たちに振る舞う(振舞われる)日には三線を弾かず、食後もご馳走様とは言わないそうです。
そこには自然に対する畏れと尊敬がうかがえます。
一方、映画製作にはタブーすらないのでしょうか。

主人公(阿部サダヲさん)はラストシーンで唐突にイカダを組み、砂浜から外洋に向けて出発します。
死を覚悟するなら補陀落渡海のようで面白いっちゃ面白いのですが、
運が良ければ救助、たいていの場合黒潮に揉まれて死ぬことになるでしょう。
迷惑ですね。死ぬなら自分の故郷でどうぞ。
中江裕司監督の『ナビィの恋』のナビィたちの船出の必然性とは比べものになりません。

また、撮影現場は西表島南西部の南風見田(はえみた/はえみだ)の浜なのですが、
ここは珊瑚礁の海です。
満潮時であってもイカダを浮かべるだけでサンゴを損傷する恐れがあります。
私は映画を見ながら気が気ではありませんでした。

さらに、ここ南風見田の浜近くではかつて、軍によって強制疎開させられた波照間島の人々が、マラリアにかかって多数死亡したという悲劇的な事件が起こっていて、浜には「忘勿石(わすれないし)」という、記念の石碑が建っています。
スタッフはそれを知っていてこういう映画みたいなものを作ったのでしょうか。
それともロケ地の下調べすら行わなかったのでしょうか。

その事件の詳細はこちらです。

沖縄史断章1.「忘勿石と強制疎開」:西表島


都会は、東京は、メディアも含めてその資本は、
「異郷・異境」の地を、
自分たちの利益のためにただ消費することを直ちにやめなさい。  


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2018年04月26日

『おくりびと』

データ
『おくりびと』
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2008年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
音楽:久石譲
俳優:本木雅弘(小林大悟)  広末涼子(小林美香)  山崎努  余貴美子  吉行和子 
   笹野高史  杉本哲太  峰岸徹  山田辰夫
製作:日本
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コメント

ほぼ完璧な作品でした。
無口で静謐な映画が好きな方には
ぜひ、とお勧めします。

「石文」のエピソードだけは、
私にはわざとらしくとってつけたように感じてしまい、それだけが残念でした。



批評
「うまいからしょうがない」

本木雅弘さんの演技/役柄(大悟)がこの映画のベースになっている。
この作品の<大地>と言っても良い。
大悟の<おくりびとぶり>の美しい所作が、この作品の大地。
エンディングクレジットを見て、それがはっきりとわかる。
大悟は終始控えめで、過剰や激情からは無縁。
大悟は素直。チェロ奏者からの転身もすなお。
彼というおだやかで肥沃な大地の上に、
個性のある大小のきのこがにょきにょきと生えている。
それがこの映画の構造だ。


広末涼子さん演じる妻美香。
都会のウェブデザイナーで、アーチストの妻でありながら、
いや、だからこそ、
おくりびとのしごとを「汚らしい」と吐き捨てる。
しかし、夫の仕事ぶりを我が目で見て、
ようやく夫を受け入れる。
なぜなら美香は、夫大悟の美しさが好きなのだから。
おくりびともアートだとわかったから。
そして美香は、
静かな夫が唯一抱える心の痛手を持て余して崩れそうなとき、
叱咤して方位を示し、そして癒すのだ。
一見現実感がなさそうに見えて、実はあなたの隣りにもいそうな「母」だ。


笹野高史さん演じる将棋好きのおやじ。
銭湯の女将=吉行和子さんに恋をしているが、
彼が銭湯を好きな理由はそれだけでなく、
もう一つの理由があることをわかる気がするのは彼の職業を知ってからだ。
地味な彼が、あるシーンでは映画全体を支配する。
彼の言う「あの世」は、私ごとき人間の口にする「あの世」とは
リアリティが違うのだ。


山田辰夫さんが扮する、ある遺族。
妻を亡くした夫。
いるよな、あるよな、わかるよな、という
迫真の演技に揺さぶられた。


余貴美子さんが演じる事務員。
彼女は、出演するどの映像作品にも言える事だが、
いつも地味な装いをして、作品世界に順応しながら、
なおかつ、この人にはきっと深くて長い人生のあれこれがあったに違いないと、
観客が人間の厚みを感じる役者だ。
この作品の事務員も、はまり役としか言いようがない。
彼女のおかげで、NKエージェントは実在するのだ。


以上、大悟という美しい大地の上に、
にょきにょきと生えたきのこの一部を紹介した。
そうやってこの作品は成り立ち、
そうやってバランスと現実感を保ち、
それゆえに完璧だ。少し整いすぎているくらい。







が、肝心な人物がまだ登場していない。

社長=山崎努さんという異様なきのこだ。
この映画が、「できすぎた作品のつまらなさ」から免れて、
「金を払って映画館見に来てよかったな」と思えるのは、
山崎努さん演じる社長の、そこいらのリアリティなど通り越した存在そのもののリアルな不安のおかげだ。

大悟が社長に感じるその不安は、
観客にダイレクトに伝わってくる。
「なにものだ、この人?」
「ついていって大丈夫なのか?」

しかし大悟は次第に社長に惹かれていく。
社長という人間の底が深いからだ。
社長の仕事が美しいからだ。
万事大切に、抱くように表現する事が得意であった本木は、
ここで自分を生かし、生きていける場所と出会ったのだ。

社長は、職業の喪失、自信の喪失を抱えた男が出会う、人生の転機そのものの象徴だ。

自分の部屋に大悟を迎えた社長は、
炭火で炙った白子をほおばる。
何万もの命がつまったその白子を
「うまいからしょうがない」とほおばる。
大悟も食べる。


リアルな命を奪って味覚という官能で味わう事をおぼえた、いや自覚した大悟は、
命を知ったことになる。
そうして、
命を失った遺体にも誠実に、おそれず、相対する事ができるようになるのだ。




 写真はすべて「おくりびと」パンフレットより拝借


補足です。
映画サイトのレビューを少し読みました。
そこでは広末涼子さんの演技に違和感を感じる方が多かったようです。
私はその違和感の原因となる、私たちの常識そのものが問われているのだと感じています。

死が怖いもの、忌むべきもの、穢れである、という反応は、
わたしたち日本文化に染まって暮らす人々にはあって当たり前です。

広末涼子さん扮する小林美香はそれを体現しているので、
主人公目線になってしまった観客に違和感を生じさせる存在なのです。
監督は尋ねているのです、美香と同じように感じるのと違うのかい?と。

あって当たり前、と私は書きましたが、
その源泉、歴史的推移を考えたいのです。
わかりやすく言えば、縄文人も死を穢れと感じていたのか、ということをです。
その後に生まれた記紀神話的世界観や渡来仏教の死生観の影響はどの程度あったのか、ということをです。
しかし今のところ手に負えないテーマですので、
いつか考えがまとまり、機会があれば、書いて行きたいと思います。




  


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2018年04月25日

『ちはやふる -上の句- 』『ちはやふる -下の句-』

データ
『ちはやふる -上の句- 』『ちはやふる -下の句-』
評価:☆☆☆☆☆・・・・・
年度:2016年
鑑賞:2018年BS/CSで再視聴。
監督:小泉徳宏
原作:末次由紀
俳優:広瀬すず(千早) 野村周平(太一) 真剣佑(新) 上白石萌音(大江奏) 矢本悠馬(西田優征) 
   森永悠希(駒野勉) 清水尋也(須藤暁人) 松岡茉優(若宮詩暢) 松田美由紀 國村隼
製作:日本
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(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社



コメント

主人公にはガッツがあるがちょっとドジなところがあって、過去につながる頑張るための動機があって、存在感ある憎まれ役ライバルがいて、それも次々現れて、失敗があって落ち込み、仲間のギクシャクもあって、、、でも最後には成功する、、、
何から何までオーソドックスなスポ根(?)青春ドラマ。
オーソドックスなので退屈かと思いきや、これがなかなか見せます。
冒険はないが破綻のない脚本のおかげなのか
ほぼ退屈しないで二本を観きりました。

広瀬すずさんの体当たりの役作りはいつものことですが、
やはりその輝きは大きな価値があります。
彼女を「見る」ためだけに多くの観客が映画館に押し寄せたとしても責められません。
スターですね。

部活動の仲間たち、
特に肉まん役の矢本悠馬さんの絶妙のウケの演技がお見事でした。
ライバル校の嫌味な主将役の清水尋也さんもいいですね。
(TVドラマ『anone』でも広瀬すずさんと共演しました。病室のシーンは少し泣けました。)
二人とも注目しておきます。
とはいえ、
若手の中で演技的にピカイチだったのは、やはりさすがの松岡茉優さん。
一目で相手を殺せる演技は、出演若手の誰も真似ができないでしょう。
それなのに演技的に出しゃばり過ぎない間合いは大したもの。
「次元が違う」と妻は言いました。



批評

原作は読んでいないのですが、長編漫画ですから、さまざまな人間関係や多くのエピソードが描かれているはず。
それを実写化する際には、物語の主軸をどこに置くのかを定め、
これに合わせてどの登場人物とエピソードを採用するのかを決める。
理屈の上ではざっとこういう手順を踏んで進めていくのでしょう。
ところが、
これまでいくつかの漫画原作を実写化した映像作品を見ましたが、
こういう基本的な手順がきちんと行われていない(orディスカッションされていない)ために、
とっちらかった筋立てになってしまったものがありました。

そういう点でこの『ちはやふる』は、
おおむねうまくいっているのではないかと思います。
これが上下退屈せずに見られた最大の原因ではないかと思いました。

千早・太一・新という昔馴染みの三人の人間関係と、
部活動の仲間としての千早・太一・奏・優征・勉という五人の人間関係という、
二つの主要なコアがあり、
両者が(過去現在入り乱れて)絡み合って作品が出来上がる、その構図は混乱なく成功していると思います。

ただし、そこに千早と太一というペアの関係が混じりこみます。
しかも、それは太一の一方的な恋慕という描き方ですし、
千早は新に(無自覚にせよ)恋しているとも受け取れます。
そこで事態はやや複雑化します。

いえ、ストーリーの要素が増え複雑になっても必然であればそれは構わないのです。
端的に言えば、この映画の主役は誰なのか、という問題を言っているのです。
千早と太一のダブル主役ならば、太一の立場に立ったシーンが多いことは理解できるのですが、
正直なところ、広瀬すずさんと野村周平さんのスター性の輝きは雲泥の差なので、
バランスが悪くなります。

もっと思い切ってピラミッドの頂点に千早を輝かせ、
太一目線のシーンを減らした方がより完成度が高くなったかな、と感じました。






もう一点、言っておきたいのは、
カルタが一番楽しかった頃を思い出す、という重要なシーンで、
千早が思い出すのは常に千早・太一・新トリオ時代の過去の思い出です。

何を思い出すのも千早の勝手ですが、
私としては現在の部活動の仲間を思い出して欲しいな。
あなたが強引に創部したクラブなのですから。
  


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2018年04月24日

『ゴッドファーザー』

データ
『ゴッドファーザー』
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年度:1972年
鑑賞:封切りの二年後にスクリーンで鑑賞。そのあと幾度もスクリーン、ビデオ、DVDで鑑賞。
監督:フランシス・フォード・コッポラ
原作:マリオ・プーツオ(プーゾ)
撮影:ゴードン・ウィリス
美術:ウォーレン・クライマー
音楽:ニーノ・ロータ
俳優:マーロン・ブランド(ドン・ヴィトー・コルレオーネ) アル・パチーノ(マイケル)
   ジェームズ・カーン(サンティノ・“ソニー”) ジョン・カザール(フレデリコ・“フレド”)
   ダイアン・キートン(ケイ・アダムス) ロバート・デュヴァル(トム・ヘイゲン)
   リチャード・カステラーノ(クレメンツア)  エイブ・ヴィゴダ(サル・テッシオ)
   タリア・シャイア(コニー・コルレオーネ)
   スターリング・ヘイドン ジョン・マーリー リチャード・コンテ アル・レッティエリ 
   フランコ・チッティ アレックス・ロッコ シモネッタ・ステファネッリ アンジェロ・インファンティ 
   リチャード・ブライト レニー・モンタナ(ルカ・ブラージ) 
製作:アメリカ
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コメント

私の知る範囲のいわゆる娯楽映画(←区別してないのですが)では、
黒澤明監督の『七人の侍』、リドリー・スコット監督の『ブレード・ランナー』等と並ぶ、完璧な映画です。

1972年の封切りのタイミングではこの傑作映画を見られなかった私ですが、
その年に叔母から借りて原作本を読みました。
分厚い本でしたが、一晩で読んでしまいました。

翌々年でしたか、ようやくスクリーンで鑑賞できた時は、三時間ただただ興奮状態。
ただし若僧の私には筋を追うだけで精一杯でした。

その後この作品を観るために映画館に何度も足を運び、
ビデオやDVDでも幾度となく鑑賞しました。

フェリーニ監督の『道』もそうでしたが、
観るたびに年をとるにつれて、新しい発見があり、
新たな人物の気持ちがわかるようになります。
娯楽作品であっても、
経年に耐える映像作品はホンモノです。

今では長男ソニーがただの癇癪持ちの男でないことも、
次男フレドの屈折も、
マイケルの妻ケイの悲しみも、
幹部テッシオの裏切りも理解できます。
もちろん、三男マイケルの悲劇も。

最後のスクリーン鑑賞は、初回から40年後。
ですから、年齢なりにこれらの想いをもう一度確かめることができました。
が、
ガードマンのカーロ役を務めるのはフランコ・チッティさんで、
私のやはり大好きな映画「アポロンの地獄」の主役だったことに、
40年たってようやく気付く抜け作ぶりが我ながら新鮮です。

楽しい楽しい結婚式のシーン、家族の幸せの絶頂から映画は始まります。








批評


 I believe in America.
 America has made my fortune.

   アメリカはいい国です。

映画冒頭、
娘コニーの結婚式のさなか、暗いオフィスで葬儀屋のボナセーラが言った台詞。
けれど、表(オモテ)の社会では、彼らイタリア移民にアメリカの法は冷たい。
娘への暴行傷害犯人には執行猶予の判決。
復讐の念に駆られた彼は法の外の裁きを期待してビトー・コルレオーネの自宅を訪れる。

カネはいくらでも払いますと申し出たが、
それはゴッドファーザーに対する礼儀ではない。
借りをつくりたくないボナセーラの辛うじての意地。
しかし、ビトーは自分をゴッドファーザーとして接しろ、と要求する。
互いの信頼や愛を求める。
さもなければこの願いは断る、と。
ボナセーラの虚勢と打算は折れて、ビトーの手に口づけする。

 Godfather






イタリア移民の世界に発生した、非合法解決ニーズの向かうところ。
それがマフィア。
ギャングも多民族国家アメリカの一部なんだとわかる。







 I think you got hit by the thunderbolt.  

  あんた、雷に打たれたんだな。

マリオ・プーツオの原作の詳細は忘れてしまったけれど、たしか、
シチリアでは「一目惚れ」を「雷に打たれた」と表現する、と書かれていた。

シチリアでは、結婚前のカップルが二人きりでデートするなどもってのほか。
散歩だって親戚が付き添う。
でも、親戚のおばさんだって若い頃があった。
二人きりになりたい気持ちはわかっているから、
少し距離をおいて歩いている。

わざとよろけるアポロニア(マイケルの最初の妻)。
その腕をとって支えるマイケル。
でかした、とばかりに笑うおばさんたち。
手を触れられるわずかな時間を作る「シチリアの散弾銃よりこわい女」たちの知恵。

逃亡先のシチリア。敵の捜索の網にじわじわと追いつめられる状況の中での恋。
でもこれがマイケルの人生でもっとも幸せなひととき。
結婚式でアポロニアと踊るマイケル。
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲを通じて唯一の、心の底からの笑顔。少年の顔。






I knew that Santino would have to go through all this.
Fredo was ,well …
But I never wanted this for you.

 おまえには継がせたくなかった


偉大な父親を持った、
それとくらべれば凡庸な息子たち。
その人望と実行力でのしあがった父ほどのトレーニングを積んでいない二代目候補たち。

しかし
ソニーには癇癪だけでなく肉親への愛情が溢れている。 
気の弱いフレドだが、誰に対しても優しく、楽天的だ。


Are you happy with your wife and children?

ビトーが口癖のように問う台詞。
家族の幸せがなにより一番。
これに答えるマイケルの顔には少々屈託がある。

マイケルは、
そう生真面目で有能なマイケルは、合法的な表の世界に適していた。
しかし、家族の宿命が彼を非合法組織の長ゴッドファーザーに押し上げた。

大学を出、良きアメリカ人として軍人の道を進み、勲章まで授かった彼は、
父のように家族や街のイタリア人たちを助けて慕われた経験の無いまま、
動じない、腹の奥を見せない、油断しない強さと冷酷さを身につけなければならなかった。

父ビトーにとってもっとも大切なものはほんとうの家族。
そのことが逆に彼の組織の長、ゴッドファーザーとしての信頼性を担保していた。

しかしその子マイケルは、
まず何よりも父が築き上げ、危機に瀕している組織=ファミリーを維持し、
抗争や裏切りを相手を壊滅させ自らが勝利することで清算し、
ラスベガス利権へと転身する作戦だけに力を注がなくてはならない。
部下たちもそれでようやく彼をゴッドファーザーとして認めるだろう。

その責務はつまりは冷徹なパワーゲームに過ぎず、愛ではない。
そのゲームにマイケルは優れた素質を見せ勝利するものの、
その彼にはいまさら家族/肉親の幸せを何より第一に考える人生は失われてしまっている。

妻アポロニアを部下の裏切りで失った彼は、
愛情を再び育てるいとまもないまま、昔の恋人を強引に伴侶にしたのだが、
その妻ケイの目の前でドアが閉ざされるシーンは、
マイケルの出発時点からのその致命的な欠陥を表す象徴的なシーンだった。
彼は愛情深い父と肩を並べる、夫やゴッドファーザーになる道は初めから閉ざされていたのだ。
マフィア組織はスーパーな男性優位社会ではあるけれど、
妻子を大切にしない男はやがて滅びる。

ゴッドファーザーシリーズという物語は長編の悲劇である。







Is it true? Is it?

No.


  


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2018年04月23日

『標的の村』

データ
『標的の村』
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2013年
鑑賞:公開年にスクリーンで二回鑑賞。
監督:三上智恵
製作:日本
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コメント

ドキュメンタリー映画の秀作です。

沖縄県高江にヘリパッド建設計画が持ち上がったとき、
内地には全くと言ってよいほどそのニュースは流れてこず、
恥ずかしながらわたくしたちも、
たまたま沖縄やんばるを東まわりで北上した時に、
高江の村内の看板を見て、ヘリパッドってなんだろうと関心を持ったことが、
高江について知るきっかけでした。

その後、真摯で切実な反対運動が続いているにもかかわらず、
ヘリパッド建設は押し切られてしまいました。

わたくしたちは無力かもしれませんが、
せめてインターネットの場で、
これからも沖縄から米軍基地をなくす活動を応援していきます。



大阪でもずっと頑張っている人たちがおられます。



鑑賞したその年に書いた文章を、そのまま批評欄に掲載しておきます。


批評

「お父さんとお母さんがオスプレイ反対に疲れてしまったら、私が代わりにやってあげたい」


ドキュメンタリー映画「標的の村」は多くの人におすすめできる秀作です。
そういうレベルの作品ですから、本気で紹介すると長文になってしまいます。
ですからここは少し控えめにします。
私が考えたこと、感じたことの断片だけを書いておきたいと思います。

なおこの映画は現在も各地で上映中です。ぜひご覧になってください。
公式サイトはこちらです。


この作品は映画製作を目的に撮影されたわけではなく、琉球朝日放送(QAB)のニュース映像の蓄積の中から編集したもののようです。
ですから、作品としてのストーリーが感じられません。
言い換えれば、作為性が希薄です。
対照の為に申し上げれば、マイケル・ムーア監督の一連の告発ドキュメンタリーと決定的に違うところはここです。
そしてこのことを長所ととらえるか短所に映るかは、見る人の観点に左右されます。

しかし、だからといって、この映像は「客観的」で「公平」なニュース映像の羅列ではありません。
取材時のスタンス、編集時の視点は明らかに住民運動側に寄り添い、共感しています。
沖縄の現状の本質はまだ戦中または占領下と同じである、という見方からは、この報道姿勢はまことに正しいものだと私は考えます。
が、沖縄への認識が私とは異なる人々にとっても、この映像を見られたら納得がいくのではないでしょうか、
この沖縄県東村高江の「ヘリパッド反対運動」がどれほど真っ当な活動なのか、ということに。
ジャーナリズムという言葉の本義に立脚した作品になった、と言えるでしょう。
その点で、たとえストーリー性に乏しくても、「作家性」はビシビシと感じとることができる作品に仕上がりました。

とはいえ、上記のようなまわりくどくて抽象的な物言いでは、この文を読んで下さった方の誰一人として「それなら見てみよう」と思って下さらないでしょう。
この映画はドキュメンタリーですから、上映中の映画に対する私のこのいつもの手法を少しだけ逸脱し、具体例を挙げることにします。




宜野座で見かけたオスプレイ:撮影はわたくし


私はかつて某国の兵士十数人に取り囲まれた体験があります。
スパイではないかと疑われたのです。
彼らの小銃は私のヘソあたりに狙いを定め、指先は引き金に触れていました。
その折の脳が焦げついたような匂いと、疑いなく覚悟した死を私は忘れることはありません。

どうか想像してください。
あなたが農民で、畑仕事をしているさなかだとします。
昼下がりに軒下で涼んでいる時でもかまいません。
爆音とともに山陰からヌッと現れたヘリのドアは開け放たれており、
そこから複数の兵士が、顔の見える距離でマシンガンを構え、
あなたを標的に狙ってホバリングしている図を。

米軍米兵は沖縄で遊んでいるわけではなく、
日々、戦争の訓練に励んでいるのです。
とくにここ沖縄島北部のやんばるでは、地対地や地対空の戦闘訓練が行われています。
ジャングル、森林、農村地帯を想定し、
物陰に潜むゲリラや敵国の民衆を殺害する訓練です。

映画の主な舞台になっている高江集落は、元は陸の孤島でした。
戦後その集落をとりかこむ広大な土地を米軍に接収され、
「おかげで」道路も出来、生活は「便利」になりましたが、
山の恵みを受け取ることができず、先祖の墓参りもできない状況が続いています。
家屋の敷地内にいきなり戦闘服の米兵が現れることもあります。
なぜ集落を取り囲むように(住民を追い出さず)訓練場が設けられたのか、
そのわけがこの映画で明らかになります。

そしてそのような恐怖は「今」起きているだけではなく、
かつてはもっと惨めな体験を「戦後」の住民が…
という衝撃的な事実もこの映画は掘り出しました。
監督三上智恵さんを初め、スタッフの熱意の賜物です。
彼らは、この日本が置かれている構造的な問題もまた、明らかにしようと努めました。

世に、「いやなら出て行け」といった無責任な言説がまかり通っています。
日本が嫌なら在日は帰れ。
君が代がいやなら公務員はやめろ。
原発がいやなら引っ越せ。
基地のそばに住みつくのが悪い。

戦前の全体主義下での「非国民糾弾」にそっくりな恫喝に何の正義も無いのは明らかで、
「日本はあなたのものですか?」と尋ねるだけで瓦解する砂の刃ですが、
砂だってたくさん飛んでくれば痛いのもまた事実です。
砂の刃に脅されてやや腰が引けているあなたなら、
この映画からはもう一つ、その恫喝が成り立たない、誤っている理由を知ることができるでしょう。

どういうことでしょうか。それは、
高江の住民のみならず、沖縄県民だけでなく、
日本列島に住む私たちはすべて米軍の標的なのです。




2008年末の高江にて:撮影わたくし:長い戦いが今も続いています。  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)ドキュメンタリー映画

2018年04月22日

『スウィングガールズ』

データ
『スウィングガールズ』
評価:☆☆☆☆☆☆・・・・
年度:2004年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:矢口史靖
俳優:上野樹里 貫地谷しほり 本仮屋ユイカ 豊島由佳梨 平岡祐太 関根香菜 水田芙美子 竹中直人 白石美帆 谷啓 小日向文世 高橋一生 江口のりこ 佐藤二朗 福士誠治 徳井優 木野花 大倉孝二 西田尚美 眞島秀和
製作:日本
allcinemaの情報ページはこちら



http://altamira.jp/swinggirls/index.html


コメント


コメディの快作です。
たくさん笑わせてもらいました。
そしてラストシーンの「シング・シング・シング」演奏では、吹き替えなしの演奏で思いっきり爽快感を味わわせてもらいました。
上野樹里さんは本作で知り、『のだめカンタービレ』(フジテレビ)でファンになりました。
(『ジョゼと虎と魚たち』は封切り時に観ていなかったものですから)

テンポ良く進み、スポーツ根性ものや熱い友情ものになっていないため、湿気を感じません。
無気力だったり退屈していたり挫折していたりする高校生が、ひょんなきっかけでやる気を出し・・・
一見よくあるストーリーに見えますが、
ユニークなのは、このビッグバンドにはライバルも競争もないことです。
同じ高校の吹奏楽部もライバルではないし、最後の大会も順位を争った訳じゃない。
苦労話や競争が嫌いな観客も安心して楽しめるのです。
私は観ていませんが、同じ矢口監督の『ウォーターボーイズ』(2001年)も同じ構図のようですね。
このことから、そして両作品ともヒットしたことから、
矢口さんは、日本の映画界に新しい風を吹き込んだと言えるでしょう。

オーディションを受けて起用された上野樹里さん、貫地谷しほりさん、本仮屋ユイカさんらの以後の活躍ぶりはどなたもご存知ですが、
今回再視聴した際に、
吹奏楽部の部長役が高橋一生さんだったことに、私たちは思わず声をあげてしまいました。

スクリーンで鑑賞した時期、私は高校の教員だったので、正直なところ少し心の距離を置いて映画を観ていました。仕事にのめり込んでいたので、心がけて仕事と私生活を峻別しておかないと、自分が壊れるおそれがあったからです。
しかし今回はすでにリタイアしていますので、仕事が私生活を侵略する危険はもうありません。気楽に楽しむことができました。

とはいえ今回、一人だけどうにも気になる「高校生」がいました。
パンクギター二人娘の内、髪をショートにしている関根香菜さんという俳優です。
彼女だけ、ネットで検索してみました。
すると、2013年時点の彼女のブログで、心の病気を告白しておられました。
<関根香菜のオツムのオムツ>
もうずいぶん恢復しておられるようではありますが、ブログは閉じられていないので紹介だけしておきます。
そうかあ、、とまるで彼女の担任か顧問であったかのようにしばらく考え込んでしまいました。
まだ旧職業から抜けだしきってはいないようです。
関根さんの周囲の皆さん、焦らずゆっくり見守ってあげてください。信じて待ってあげてください。



  


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2018年04月21日

『馬を放つ』

データ
『馬を放つ』
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:2018年公開
鑑賞:大阪公開時にスクリーンで鑑賞。
監督:アクタン・アリム・クバト
脚本:アクタン・アリム・クバト
俳優:アクタン・アリム・クバト(ケンタウロス) ヌラリー・トゥルサンコジョフ (ヌルベルディ=息子)
 ザレマ・アサナリヴァ (マリパ=の妻) タアライカン・アバゾバ(シャラパット=主人公を慕う女性)
 イリム・カルムラトフ(サディル)  ボロット・テンティミショフ(カラバイ=競走馬を盗まれた富豪)
製作:キルギス/フランス/ドイツ/オランダ/日本
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写真はパンフレットより(表紙):監督自ら主演し、監督自ら馬に乗っています。


コメント

素晴らしい映画でした。
美しく、かつ、哀しい映画でした。
しかし最後に希望も滲ませていました。

まずは、妻の文章でこの映画の概略をつかんでください。

若い頃にリュックしょってシルクロードの一部を旅したことがあるので、岩波ホールのKさんが紹介されていたキルギス映画『馬を放つ』がとても気になっていました。時間が取れたのでテアトル梅田で鑑賞。1週間近く経った今も後を引いています。
草原の遊牧民だったキルギス人の生活も時代と共に変わり、かつて人々の翼だった馬は今や金持ちのための競争馬に。それを盗んでタイトル通り野に「放つ」主人公。ネタバレになるからこれ以上は書きませんが、グローバル化で得たものと失ったものとか、アイデンティティーって何だ?とか、色々と考えてしまいました。それにしても、月明かりの下で草原を疾走する馬の美しいこと! 露店のマクシム(大麦を発酵させた飲み物)も立ち飲みしたくなりました。



今の段階では具体的にストーリーに触れることは避け、やや一般化して批評します。
なぜなら、現在封切り公開中であることに加え、私のキルギス学習ができていないからです。
私は現場主義者、というより現地の空気を吸って初めて本気で学ぼうという気になりますので、
まだシルクロードの大陸側に足を踏み入れたことがないことは結構致命的なのです。
今後すぐにキルギスに旅する余裕はありませんが、
それでもなんとか、後日には修正加筆したいと願っています。

なお、キルギスの人々はクルグズと自称しているそうですので、ここからは
クルグズ と表します。



写真はパンフレットより:馬を捕獲するために足にロープをかけ、倒します。古くからの方法でしょうが、現在のクルグズの馬の運命のみならず、主人公、そしてクルグズ人全てを象徴する映像でした。無理を承知で言えば、もっと大きな写真をパンフレットに載せて良いのではと思うほど、クルグズの現況がわかりやすいカットでした。



批評

この映画は、クルグズが失いつつあるものを惜しみ、失いつつあることに憤って作られました。
失いつつあるものとは、ピンポイントには馬への敬意や馬との暮らしでしょうし、神・祖先信仰や民族の伝統的生活スタイル、思想や文化全体のことでもあるのでしょう。

作品中には、その変化を示すヒントとなるいくつものシーンが描かれています。あるいはセリフで語られます。
(それなのに作品のバランスが崩れていないところが素晴らしいのです。さりげないです。こなれています。監督にとって日常的に考え続けているテーマであることがわかります。)

その中で、まずは馬に関わる部分に絞って例示します。

・富豪は馬に乗らず車を使い、疾走させる。
・馬は競走馬として飼う。富の象徴なのだ。
・主人公はケンタウロスと呼ばれる騎馬の達人だが、生活は貧しく、馬を所有できない。
 (つまり、国内の貧富の差が激しくなっている)
・クルグズ人にとって馬が(昔ほど)必要でなくなったため、馬肉用に他国に売られたりしている。
・クルグズ人は遊牧民・騎馬民の誇りを忘れ、祖先神を忘れ、馬が人間の翼であったことを忘れつつある。



予告編より


ご承知の通り、クルグズ(Kyrgyz)とは中央アジアに位置する国で、かつてはソヴィエト連邦を形成している国家の一つでした。
人口の7割強を占めるクルグズ人の元をたどれば天山山脈由来の遊牧民族・騎馬民族であるらしく、言語はテュルク系。つまりトルコ人と言語ルーツを同じくしています。
シルクロード通商が華やかな時代には、その中継地として栄えた歴史があります。

付け焼刃の歴史をこれ以上語ることは避けますが、一つだけ書いておきます。それはクルグズ人の信仰についてのあらましです。
現代のクルグズ人の多く(4分の3)の信教は17世紀に広がったイスラム教ですが、人々の心の中には伝統的なシャーマニズム(またはアニミズム)がまだ生き残っていると各種資料に書かれています。
映画の中でも、あるイスラム伝道士が、「秘密だが、私は異端なのだ。天使が見えるから。」と主人公ケンタウロスに打ち明けるシーンが印象的でした。この天使とは、日本風にいえば精霊とか妖精に近いのではないでしょうか。
また、言葉を話せない息子を、主人公夫婦はシャーマンの元に連れて行き、判断を仰ぎます。(私は沖縄のノロ、ユタを想起しました)

民族の伝統的な信仰の基本はマナスという口承の叙事詩(世界遺産)で、パンフレットから引用すると「現在ではキルギスの民族統合のシンボル」になっているそうです。


imazu takaoさん発信のYoutube



そのマナスの主人公は英雄マナスという人間ですが、馬の守護神をカムバルアタと言います。
主人公はこのカムバルアタに恋い焦がれているように見えます。

パンフレットから、カムバルアタに関わる部分を引用します。主人公が息子に語るシーンです。
「かつて、向かうところ敵なしだったキルギスの戦士を乗せた馬、馬に翼を与えたのは馬の守護神カムバルアタだ」
「今からずっと昔、キルギスの人々は意地悪なメレズ・ハーンに支配されていました。ある晩、馬の守護神カムバルアタが現れ悪事を止めるように言いました。メレズはカムバルアタを殺すように命じると、それと同時にカムバルアタの姿は煙のように消えてしまったのです。幸せと繁栄はこの地を去った。でも、いつかきっと心の澄んだ男が現れて、許しを乞うために風のように駿馬を駆って月夜を走り抜けるでしょう」

そうです、主人公ケンタウロスは、自分をその「心の澄んだ男」、つまりはカムバルアタの化身と二重写しに見ているのでしょう。少年のようなピュアな人物なのです。近代化した現在のクルグズに居場所が見つからないのはもっともです。

そう考えると、私の違和感が一つ解消しました。
違和感というのは、主人公のケンタウロスという呼び名(通称)です。
ケンタウロスとは半人半獣(馬)の部族なので、いわば人馬一体。主人公にふさわしい名だとは思いますが、やはり語感のギリシア・欧米感はぬぐえません。もしかすると主人公もこの名には違和感を持っていて、内心ではカムバルアタと呼んでもらえるようになりたかったのかもしれません。
ただしこのあたりはまだ勉強不足の私の憶測ですが。

もう一つの違和感から来る疑問は、クルグズの男性にとって馬は翼であったのでしょうが、
女性にとっても同じだったのかどうか、です。
ここは全く未解決なので、勉強しなければなりません。



予告編より


映画は、馬に関することだけでなく、クルグズの歴史や直面している問題を散りばめています。
例えば、
映画館がイスラム教の礼拝所になったことが伝えられます。
ロシアの影響が今なお残っていることが、ギリシア正教の祭礼のシーンでわかります。
それ以外はどうぞご自分の目で確かめてください。


さて、とりあえず本稿は結びに入ります。
私が答えを見つけられないことをそのまま投げ出して終わりにしたいと思います。

それは、近代化が進行しているクルグズが失いつつあることのシンボルが馬であるならば、
日本が失ったものを何に代表させればいいのかという疑問です。問題設定です。
時代は異なるものの、かつての近代化と、現在のグローバル化によってスカスカにされた日本も、
クルグズと同じように大切なものを揮発させてしまっただろうと考えるからです。

日本でも馬は失ったのです。
江戸時代には、一説によれば4,50万頭の馬がいたそうです。
現在では在来馬は約3000頭と言いますから、ほぼ絶滅に近い状態です。
しかし、日本が近代化によって失ったものを馬に象徴させることは難しいように思います。
日本人の翼が馬であったことは(上級武士を除けば)ないからです。

それでは日本人は、いつ、何を失ったと気づけば、
この『馬を放つ』のような映像作品を自ら製作し、
哀切な説得力を持たせられるのでしょう。

もう少し考えて行きたいと思います。

  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画