2020年01月16日

『用心棒』:文句なしの分厚い娯楽作品

データ
『用心棒』

評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆・
年度:1961年
鑑賞:封切り時?スクリーンで、その後何度も鑑賞。2020年BS/CSで再視聴。
監督:黒澤明
脚本:菊島隆三、黒澤明
音楽:佐藤勝
撮影:宮川一夫
美術:村木与四郎
殺陣:久世龍
俳優:三船敏郎 仲代達矢 山田五十鈴 東野英治郎 志村喬 加東大介 山茶花究
製作国:日本
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『用心棒』:文句なしの分厚い娯楽作品

FILM struckより


コメント

脚本
演出
演技
撮影
BGM
美術
殺陣・・

娯楽としてこれ以上の映像作品を私は知りません。

何度も何度も本作を観た私でも鑑賞のつど新しい発見があり、「最高」の輪郭線がふくらむのです。
いや、参りますよ。

そういう作品ですから、正面からの批評もコメントも勘弁していただいた上で、今回の鑑賞で思いついたことを少しばかり批評欄に書かせていただきます。いきおい断片的な文章になりますのでお許しください。



『用心棒』:文句なしの分厚い娯楽作品

FILM struckより


批評

・桑畑三十郎という名前について
主人公が名を問われ、窓外に広がる桑畑を見やって悠然と偽名を名乗ったわけですが、現在の観客に桑畑を認知してもらうのはほぼ無理でしょう。江戸時代末から日本の養蚕(ようさん)技術は急激に向上して中国産と肩を並べ、蚕(かいこ)の繭(まゆ)から作る生糸(きいと)は明治以降の日本の最大の輸出品になりました。蚕を養殖するには大量の桑の葉を用意しなければなりません。ですから養蚕をしている農家の畑にはたくさんの桑の木(マルベリー)が植えられていたのです。桑の木は落葉樹ですから、冬の畑に枝だけになった木が見渡す限りずらりと並んでいれば、それは間違いなく桑畑だと言えたのです。(カキやブドウ・リンゴの大面積栽培はもっとずっと後です)本作の製作年度は1961年。日本が敗戦した1945年まで養蚕は盛んでしたから、当時の多くの観客にとって冬の桑畑の風景は馴染みのものでした。アップ映像がなくてもわかるのです。とはいえ、本作の桑畑はどうやってセットの近くに用意できたのでしょうか。どなたか教えてください。なお、導入部での農家の夫婦の発言や街の飯屋の権爺のセリフから、何度も「絹問屋」「絹市」などの言葉が発せられていますから、絹=養蚕=桑の木という連想は(知識さえあれば)可能ではあります。

参考写真冬の桑畑「伊藤健史さんのブログ」をご覧ください。


・主人公(桑畑三十郎、三船敏郎さん)の動機について
数ある映画サイトに設けられた鑑賞者のレビューをよく読むようになったのは最近です。中には大変優れた着想もあって勉強になりますし、特に本作のように古い作品の場合、若い読者は何がどこがわかりにくかったのかを知ることが参考になります。本作のレビューの中に「三十郎の動機がわからない」という意味の感想が複数あって驚きました。若い読者にとって白黒映像の本作は古典的芸術作品なのでしょうか。いえ、本作は正義のヒーロー物の娯楽作品なのですよ、と言ってあげたくなりました。三十郎はヒーローですから、暴力に打ちひしがれていたり貧乏に喘いでいる者たちを見過ごしにはできないのです。もちろん食いつめ浪人ではあるのですが。


・本作はハードボイルドなのか
本作がダシール・ハメットさんの小説『血の収穫』(1929)を下敷きにしていることはよく知られています。この小説はいわゆるハードボイルド小説の嚆矢(こうし、はじまり)とされています。ずいぶん前に私も読みましたが、主人公の策動により、陰惨な抗争の続くアメリカの鉱山街に死体の山が築かれ、ついに静穏が訪れるという構造は本作とまったく同じです。『用心棒』は日本最初のハードボイルド映画と言えます。ただ、『血の収穫』の主人公「俺」の行動は情け容赦がなくハードボイルドそのものでしたが、本作の主人公三十郎には時折やや湿った人情が感じられます。そもそもの発端は水をもらった農家の親父(寄山弘さん)が、宿場で博打うちになると出て行ったせがれへの腹いせに、「血の匂いをかいで飢えた獣が集まってきやがる」と三十郎に汚い言葉を吐きつけます。この言葉に三十郎が頬を引きつらせたシーンから物語は始まるのです。ラスト近く三十郎はこのせがれ(夏木陽介さん)の命を助け、怒鳴りつけて家に帰します。また、物語の中軸では引き裂かれた百姓家族(土屋嘉男さん、司葉子さんら)を助けて逃してやり、その結果自らの命を危うくするという(ハードボイルド主人公としては)情けに溺れる行動が描かれます。権爺(東野英治郎さん)を助けるための決闘も同様です。非情な主人公にはなり切れないのです。これは黒澤+菊島コンビの(好ましい)限界を表しているのでしょうか。あるいは人情に溺れやすい日本人観客へのサービスでしょうか。

・本作は何時代のお話?
八洲まわりの役人が登場しますから、江戸時代だと断定できます。泣く子も黙る八洲まわりについて詳しく知りたい方は下記サイトやwikiを。
八洲まわり


『用心棒』:文句なしの分厚い娯楽作品

FILM struckより


・キャストの存在感や映像・音楽について
黒澤明監督と組んだときの三船敏郎さんは偉大なスターです。その存在感、所作、的確な表情など申し分なく、特に本作のような娯楽作品では実にかっこいいスターです。本作でもスタートしてすぐ彼の後姿が映るだけで、映像と音楽との相乗効果もあって、ワクワクが止まりません。これは何度見てもそうなのです。実に得難い俳優だと言えましょう。
ところが、見終わったときやその後何ヶ月も後に私の中で印象に残る絵や音は、三船さんの姿だけではないのです。野良犬が手首をくわえて走る時のコミカルな音楽、権爺が括られぶら下げられている時の顔(冒頭の写真)、なかなか死なない卯之助(仲代達矢さん)の末期の行動、同じく卯之助の登場のシーンで半鐘を見上げる映像、巨人の用心棒かんぬき(羅生門綱五郎さん、台湾人です。知ってました?)の頭上から撮った三十郎を見るアングル、名主多左衛門(藤原釜足さん)の狂乱、引き裂かれた百姓家族が抱き合う時の効果音、亥之吉(加東大介さん)の睨み、そして極め付けは清兵衛の女房おりん(山田五十鈴さん)が「女に不自由してんだろ」と勝ち誇ったように三十郎を見上げる顔とその背後の宿場女郎たちの気が乗らない嬌態・・・名場面にキリがありません。
本作が単なるよくできた娯楽作品にとどまらない地位を占めているのは、脇のキャストたちのキャラ立つ本気も本気の名演技と、撮影の芸術性、情感に訴える音楽などの力でなのです。正義のヒーローと、せいぜい悪役くらいが目立つ凡百のヒーローものとの決定的な違いはここにあります。オマージュ作品『荒野の用心棒』との差もここだと思っています。
とは言え、個性と存在感が溢れる濃い脇役陣や音楽、映像にまったく腰折れず負けない三船敏郎さんの存在感はやはり大したものだと思わずにはいられないのです。


『用心棒』:文句なしの分厚い娯楽作品

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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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