2018年11月30日

『ブランカとギター弾き』:かりそめの母はもう要らない

データ
『ブランカとギター弾き』
BLANKA
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2015年
鑑賞:2018年BS/CSで視聴。
監督:長谷井宏紀
俳優:サイデル・ガブテロ /cydel gabutero(ブランカ) ピーター・ミラリ(ピーター) 
ジョマル・ビスヨ(セバスチャン) レイモンド・カマチョ(ラウル)
製作国:イタリア・フィリピン・日本
    (フィリピンと日本は製作国ではありませんが、敢えてこう書きます。)
allcinemaの情報ページはこちら


公式HPより


コメント、批評〜かりそめの母はもう要らない〜

有名女優の養子になりたい。
あるいは母親を3万ペソで買いたい。※
そう願い、盗みをしてでも金を貯めようとしていたスラムに住む11歳の少女が、
やがて母は要らない、温かいベッドがなくても構わないと思うようになる。。。。
ふだん私より涙もろくない妻も、そこのポイントではウルっときたようです。
※最新レートでは、3万ペソ=63000円


予備知識がほぼゼロな状態で鑑賞し始めてすぐ、これはファンタジーなのだなと直観しました。
『パンズ・ラビリンス』(ギレルモ・デル・トロ監督)風の作品なのだろうかと思いながらとりあえずは観ました。
そして鑑賞後は、あの名作『街の灯』(チャールズ・チャップリン監督)を観た後の心持ちと(同レベルとは言わないが)同じテイストが自分の中に漂い残りました。
貧しさ、盲目、温かい結末、、、映画の要素が共通するからかもしれませんが、長谷井監督の意図には『街の灯』オマージュが組み込まれていたのだろうと私は考えました。
少女ブランカが盲人のギター弾きピーターの手を自分の頰に当て、「これで私を夢に見ることができる」というシーンでそう感じました。
そこに生まれた感情は「愛」と呼ぶしかありません。
愛を知らずに育った子供が、いったん愛を知ってしまったら、帰るところは他にあるはずがありません。
77分の本作のストーリーはとてもシンプルで、上記の通り、
愛を知らずに育った子供が、いったん愛を知ってしまったため、愛のないところから愛のあるところに戻っていくお話。

と、下線部のように書いて紹介すると、そういう映画は今更観たくはないと思われる方も多いと思います。私だってそう思うでしょう。ところが違うのです。それはあらすじに過ぎず、そのあらすじを超えた魅力に、まるで地上に立ち昇る水蒸気のように包まれる作品なのです。



公式HPより


その魅力とは何か。今のところ適切な言語で表現できません。
もちろん、出演者たちのありようはその魅力の大いなる要素になっています。サイデル・ガブテロさんの表情や歌声、ピーター・ミラリさんの存在感やギターの音色には痺れました。
また、フィリピンのスラムやそこで暮らす子供達への監督のスタンスが心地よいことも大きなプラス材料です。
歌の選択もまた秀逸でした。歌詞は監督自ら作られたそうです。
しかしこのような断片的な書き方では、水蒸気のようにメガネを曇らせるこの映画の本質は語りつくせません。
う〜ん、とうなって行き詰まり、ちょいと本作の公式HPを読みはじめたら、あっさりと本作の魅力を書いてしまっている有名人を見つけました。
とても悔しい反面、その方のファンでもある私は、「さすが」と思いました。
その有名人とは、UAさんです。






公式HPからUAさんのコメントを全文引用させていただきます。なぜなら映画の公式HPというやつはいつかは消えてしまうから。(下線は筆者)

悪にサイズはないにしても、
未熟な悪を振る舞わなければならない子供たち。
けれど重要なのは、『ブランカとギター弾き』には、
ファンタジーが貫かれていることだ。
子供たちのその振る舞いを罪だと言い切れる大人はいない。
そして何よりも、水晶より美しい羊水からできている
ブランカの涙は最高のギフトだ。
共振する自分の涙まで浄化されるようだ。
表現とはそういうことだと思う。

盲目の男は「映画の中の出来事は全て本当のことなんだ」と言う。
小さな奇跡の連続に感謝した。
映画から戦争がなくせるのなら、
この世界もそうなるのかもしれないと、信じたくなる作品。
そして、子供たちはもう盗まなくなる。
静かな祈りをありがとう。

UA(歌手)



作品中に、スラムの少年セバスチャンがブランカに「どうして貧乏人と金持ちがいるの?」と尋ねる場面があります。
11歳のブランカは答えられません。

しかし、本作を観る日本の成人男女は答えなければなりません。ブランカたちに教えることができるはずです。
できないとすれば、NHKのチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られても仕方ありません。

答えは単純。税金の還元や富の分配の不平等です。
あるいは働く者が生み出す価値を搾取する者の存在を許す資本主義経済です。
あるいはいつかどこかで誰かが始めた財産の私有です。(いったい誰が地球の表面を自分のものだと考えたのでしょう)

今日の経済の仕組みを是とするか否とするかは関係なく、
貧乏人と金持ちがいる本質的な理由はそこにしかありません。

その仕組みが変われば「子供たちはもう盗まなくなる。」〜〜
当然ですね。



『MASDAN MO ANG MGA BATA』(子供たちを見てください:タガログ語)cydel gabutero
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月20日

『エイリアン』:リプリーの敵はエイリアンとロボットだ

データ
『エイリアン』

評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年度:1979年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。その後スクリーンやDVDで多数視聴。
監督:リドリー・スコット
デザイン:H・R・ギーガー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:シガーニー・ウィーヴァー(リプリー二等航海士) トム・スケリット(ダラス船長) 
   ジョン・ハート(ケイン一等航海士、副長) ヴェロニカ・カートライト(ランバート二等航海士) 
   ハリー・ディーン・スタントン(ブレット機関士) ヤフェット・コットー(パーカー機関長) 
   イアン・ホルム(アッシュ科学主任)
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら



写真はすべてDVDより


コメント

映画が終わり、エンドクレジットが終わり、映画館のあかりがつき、他の客があらかたいなくなっても、腰が抜けたようにあるいは尻が座席に接着されたように立ち上がれなかった映画は、後にも先にもこの作品だけでした。
それほど衝撃的な出会いでした。
ほとんどアタマを使う必要がなく、社会性も帯びていない娯楽作品なのですが。

スリリングなホラー性の質の高さは言うに及ばず。
女性のリプリーがSFホラーの主役であることが斬新。
ギーガーさんのデザインも新しさとおどろおどしさで革命的。
音楽も編集もうまくいきました。
ですから一瞬たりとも目を離すことができませんでした。


この世界には本作の熱狂的ファンは数知れず存在し、インターネット上にマニアックな情報があふれています。
マニアではない私がここで付け加えることはなさそうですし、まとまった論評、詳細な解説は不要かと思います。
そこで批評欄では、わたしにとって特に重要なインパクトを与えてくれたシーンのいくつかについて断片的に言及したいと思います。





批評

●鉱石運搬用宇宙船の名はノストロモ号。所有する企業は日系企業のユタニ社。
 『ダイ・ハード』(1988)のビルも日本企業のものだったので、この間の10年くらいは日本経済の世界進出が目覚しかったのだなあと感慨を。
 本筋とは無関係ですが、「湯谷」という日本人の姓は全国順位4971位というかなり少数派の姓だそうです。(名字由来net)

●「冬眠」から目覚めたクルー達は、コンピュータ(マザー)が地球ではなく別の太陽系の惑星に向けて進路変更したことを知る。ユタニ社はクルーとの契約条項に「知的存在と接触できるチャンスを逃さない」との文言を入れている。もちろんユタニ社にとってこの進路変更と接触は当初からの企てだったわけで、そのためクルーの中にロボットを紛れ込ましている。ユタニ社があの生き物の存在を把握していたのなら、それは人類に対する犯罪ですわな。

●クルーの中で格差があることがわかる。ブレット機関士とパーカー機関長はボーナスの格差を嘆き、値上げを陳情するが船長達にすげなく却下される。「現場は無視かよ」的な愚痴を言い合う。キャリアとブルーカラーの格差がリアルだ。
ちなみに、ブレットを演じたハリー・ディーン・スタントンさんとは本作以前に『西部開拓史』『さらば愛しき女よ』で出会っているはずでしたが印象に残っていませんでした。しかし本作で私の目が惹かれてファンになったため、5年後の『パリ、テキサス』での主演は他人事に感じられない喜びでした。

●ケイン副長をはじめ、喫煙者が何人もいる。1979年の時点で今日のような禁煙ブームが世界的に巻き起こるとは想定されていなかったことがわかる。
喫煙者の私から見て、なるほどここで吸いたくなるだろうなと思うタイミングで吸っています。仕方がないことですが、人類の文化がまた一つ消滅の危機に瀕していると実感します。

●全編を通じてノストロモ号の機関や内装には汚れや経年劣化が顕著。このあたりのリアル感が、物語全体を荒唐無稽に思わせない一種の伏線になっていると考える。

●人間に危害を加えるロボットが同乗している。これ以降の続編でもロボットは重要なファクターとして登場する。妻はエイリアンシリーズを「リプリーの物語」と呼ぶのですが、それはまさしくその通りですが、最新の二作を観るとまるで「ロボットの物語」かと思わせます。
私など、SF作家アイザック・アシモフさんが提示したロボット工学三原則(「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」)を能天気に信じていたクチなので、40年ほど前に本作を観た時には極めて意表を突かれました。
本作中でのシーンとしては、アッシュが突然その場駆け足のような運動をした時に背筋がゾワっとしたことを記憶しています。


●巨人宇宙人の造形が素晴らしい。圧倒的な驚き。

●完全生物(エイリアン)という設定もまた素晴らしい。造形は言うには及ばず。体液が強酸ならば確かに打つ手はほとんどないに等しい。

●その完全生物に対抗するリプリーは、途中からは完全に生存者のリーダーとなるところが好印象。従来のサスペンスフルなアクション映画では、女性がリーダーになることは(ほとんど)なかったから。その意味で本作が後代の映画に与えた影響は計り知れない。

●そのリプリーですら、火炎放射器で牽制することくらいしか対抗手段がない。武器がない状態での脱出をどうするのか、興味津々だった。

●リプリーは船を爆破するしか方法がないと考えたが、それが無理だとわかり、爆破をキャンセルしに戻るが、タッチの差でキャンセルできなかった場面からラストまでは、(そんなわけはないけれど)自分が息継ぎも忘れていたような気がする。


●出典も定かでなく、文言も記憶していないが、確か内田樹さんが本作を評して性的メタファー(暗喩)に満ちていると書かれていたように思う。私も初見の時にそのように感じた。
具体例はマニアの方にお任せ。ただ一つだけ。ケイン副長(ジョン・ハートさん)がとても中性的でセクシーに描かれているとは思いませんか。彼に幼生エイリアンが張り付いた姿には「凌辱」という言葉が閃いてしまった1979年の私でした。


この程度の文で私の絶賛をお伝えすることはとてもできません。
が、挙げていくときりがありませんので、さしあたってはこれくらいにしときます(笑)
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月18日

『点と線』:加藤嘉さんに漂うあの頃感

データ
『点と線』

評価:☆☆☆☆・・・・・・
年度:1958年
鑑賞:ずっと以前民放TVで見た記憶。2018年BS/CSで再視聴。
監督:小林恒夫
原作:松本清張
俳優:南広 加藤嘉 山形勲 高峰三枝子 志村喬 堀雄二 花沢徳衛 楠トシエ 風見章子
成瀬昌彦 小宮光江 月丘千秋 三島雅夫
製作国:日本
allcinemaの情報ページはこちら


Robert Sanchez


コメント

加藤嘉 さん、山形勲 さん、高峰三枝子さん、 志村喬さんの演技の競演は観る価値があります。
特に加藤さん演じる鳥飼刑事の雰囲気は、原作以上のリアル感で迫ってきます。

それだけに新人?の男優を主役に抜擢したことは致命的でした。


官僚の汚職、つまり業者との癒着があり、
その結果、部下の官僚が(自殺に見せかけて)殺害されるという構図が、いかにも清張さんらしい設定です。
政治家こそ登場しないものの、今でも見かける犯罪です。

原作に書かれた不自然な設定はそのまま描かれています。

鉄道の時刻表が重要なファクターになるのですが、それならもう少し鉄道それ自体に密着した映像がたくさん欲しいと思いました。
それでも、D51が蒸気を上げて突進したり、青函連絡船の映像があったり、昭和世代には楽しめる要素が散りばめられていました。
しっかり保存しておくべき映画ですね。


批評

松本清張さんの著作はかなり読みました。
歴史物、昭和ものにはずいぶん刺激を受けましたが、
率直なところ、多数の長編推理小説群の中には感動できる作品はありませんでした。
失礼ながら「濫作」という二語を頭に浮かべることがほとんどでした。

けれども、それでも私は読み続けました。
今から思えば、それは一種の中毒だったように思います。
清張さんが作品にぶつけてくるエネルギーの中毒。
そのエネルギーの源泉は、どこにあったのでしょうか。
彼の貧しく不遇で才能を発揮できなかった若い頃の「悔しさ」や「怨念」?
それともニーチェのいうルサンチマン、つまりは「怒り」?
それらも否定できませんが、それよりもむしろ、たいへん知的な素養がありながら十分な教育機会に恵まれず、花開くのが遅かった自分の人生の焦りのように感じました。
残りの寿命の中でどれだけ取り戻し、どれだけ達成できるのか、という焦り。
その焦りによって書き散らした、と考えています。

その結果、私のような読者は、彼の著作のエネルギーを受け取ることができましたし、
斬新なアイデアに至ってはもう無数に我が物にできたように思います。
小さな例ですが、私が時刻表を読めるようになったのは本作の原作のおかげです。
ですから感謝しています。

で、ようやく映画の話題ですが、
原作を読んでいる場合は、そのエネルギーに押されて少々の瑕疵は気にせず読んでしまうのです。
ところが、これを映像化すると、瑕疵が目立ってしまうのです。なぜでしょう。
本作でいえば、東京駅でわずか4分間だけ、離れたホームまで見通せる時間があることがミソなのですが、
見通す先に見られていることを知らない男女がちょうど列車に乗り込む、というのはいくらなんでも仕掛けとしては通用しない奇跡です。
映像にするとその奇跡がバレてしまうのです。
難しいものですね。
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月16日

『1001のバイオリン』:『ブルーハーツが聴こえる』の一編

データ
『1001のバイオリン』
:オムニバス『ブルーハーツが聴こえる』中の一作

評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2017年
鑑賞:2018年BS/CSで視聴。
監督:李相日
脚本:小嶋健作
音楽:ブルーハーツ『1001のバイオリン』
俳優:豊川悦司(父) 小池栄子(妻) 石井杏奈(娘) 荒木飛羽(息子) 三浦貴大(元同僚) 
製作国:日本


公式HPより


コメント

本作品はオムニバス映画『ブルーハーツが聴こえる』中の一作になります。
豊川悦司さんたち役者陣の好演が光ります。
私は『ブルーハーツが聴こえる』全六作のうち、本作と「ハンマー(48億のブルース)」(尾野真千子さん主演)しか観ていません。

ブルーハーツとは言わずと知れたバンドTHE BLUE HEARTS。
本作はTHE BLUE HEARTSの曲『1001のバイオリン』をモティーフにして映像化されました。

真島昌利さん作詞のこの曲の歌詞を一部ご紹介します。
本家甲本ヒロトさんだけでなく、宮崎あおいさんのCM歌唱でもよく知られていますね。



ヒマラヤほどの消しゴムひとつ 楽しい事をたくさんしたい
ミサイルほどのペンを片手に おもしろい事をたくさんしたい

夜の扉を開けて行こう 支配者達はイビキをかいてる
何度でも夏の匂いを嗅ごう 危ない橋を渡って来たんだ
夜の金網をくぐり抜け 今しか見る事が出来ないものや
ハックルベリーに会いに行く 台無しにした昨日は帳消しだ





福島県南相馬郡にて撮影(c)gadogadojp:無断転載を禁じます

批評

本作中で、姉が弟に『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み聞かせる場面がありました。
しかし最も肝心な歌詞部分は台無しにした昨日は帳消しだ、楽しい事をたくさんしたいだと思われます。

福島第一原子力発電所で働いていた父は、おそらく家族のために、仕事を捨てて都会に避難しました。
しかし、逃げ出した自分を許すことができず、福島での生活・人生の思い出を断ち切ることもできず、
都会に住む自分を肯定することができません。

他の家族はすでに「諦めた」、つまり都会で生きる腹を固めたというのに。

緊急避難した時に連れてこなかった愛犬タローがまだ生きているかもしれないという理由をつけて、
父は元同僚とともに、福島の立入禁止区域に入り込みます。
金網をくぐり抜けて。
「オレが認めてしまったら、ぜんぶ、無かったことになっぺ!」

タローは死んでいるはずですが、
父は犬(別世界のタローかもしれない)の遠吠えを耳にし、これに応えます。
わお〜〜〜ん。
ごめんなタロー、もう戻らないよ、都会で生きていくから〜・・・
(妻は、これで踏ん切りをつけるとは男の子やなあ、と言いました。そうなんでしょうか。)

李相日監督による、原発避難者=被害者へのエール。
心に染み込む佳作ですので、ぜひ一度ご覧になってください。


jboy 10  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月14日

『荒野の用心棒』

データ
『荒野の用心棒』
PER UN PUGNO DI DOLLARIA、 FISTFUL OF DOLLARS
評価:☆☆☆☆☆☆・・・・
年度:1964年(日本公開は1965年、アメリカでの公開は1967年)
鑑賞:封切数年後にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:セルジオ・レオーネ
原作:黒澤明、菊島隆三
音楽:エンニオ・モリコーネ
俳優:クリント・イーストウッド (名無し、ジョー) ジャン・マリア・ヴォロンテ(ラモン・ロホ)
   マリアンネ・コッホ (マリソル) ホセ・カルヴォ(シルバニト:居酒屋店主) 
   ヨゼフ・エッガー(ピリペロ:棺桶屋) アントニオ・プリエート (ベニート・ロホ) 
   ジークハルト・ルップ(エステバン・ロホ) ウォルフガング・ルスキージョン(バクスター保安官) 
   マルガリータ・ロサノ(ドナ・コンスエラ・バクスター)
製作国:イタリア
allcinemaの情報ページはこちら





ch. HITOMI


コメント

日本の時代劇映画の筋立てを真似、
アメリカの西部劇を真似して作り、
舞台はメキシコの設定、
主役だけはアメリカ人、他は多国籍、
スペインを主なロケ地にして、
イタリア映画会社が製作するという、
考えてみればたいへんにワールドワイドな映画でありました。

オープニングクレジットのセンスのいい赤と黒の映像に、新進音楽家エンニオ・モリコーネさんの情感とワクワク感の溢れる音楽が重なり、観客の良作への期待を高めます。セルジオ・レオーネ監督の手腕は音楽との親和性の高さが特徴だと思います。映画音楽の重要性を再認識させたのではないでしょうか。

映画が始まると、クリント・イーストウッドさん演じる名無し男が井戸の水を飲みに荒野の町に立ち寄ります。
囚われた美貌の母親マリソル(マリアンネ・コッホさん)と目が合うことで物語は動き出すことになります。
TV『ローハイド』の青臭い青年役でしか知らなかったイーストウッドさんが、無口で渋いハードボイルドな役柄に似合うことで驚きました。
彼はやはりスターとして生まれたのです。スターにきめ細かい演技は不要です。

その後の展開はシンプルですし、すでに『用心棒』を鑑賞済みの観客には大きなサプライズはありませんが、
愛想のないほど(つまりツッコミどころ満載の)省略を駆使してトントンと進んでいきます。
したがって深い感動は得られないものの、やっぱりハラハラドキドキと映画に没入できたのでした。






批評

黒澤明監督の『用心棒』との優劣を語るのは野暮だと思います。
ただ、二つの違いが私の興味を惹きました。

一つは、町の住人がボス同士の争いに息を潜めている『用心棒』では、まるで町が生きて呼吸しているように感じましたが、『荒野の用心棒』では町の気配が希薄で乾いていたことです。
アメリカ西部劇が好きなレオーネ監督としては、その乾いた描写は当然だったかもしれませんね。

もう一つは、日本刀で斬り合うのと銃で決着をつけるのとの距離感の違いです。肉体性(肉体が傷ついた流血の有様)が異なるため、闘いの湿度が異なるのです。

ちょうど、乾いた恐怖を描くのが得意なアメリカホラーと、湿度の高い恐怖がデフォである日本のホラーとの違いにも似て、東西文化論に想いを馳せてしまうのです。

『用心棒』を久々に観たくなりました。
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月08日

『シザーハンズ』:コクのあるおとぎ話

データ
『シザーハンズ』
EDWARD SCISSORHANDS
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:1991年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。その後数回ビデオで鑑賞し、映画館で再視聴。
監督:ティム・バートン
音楽:ダニー・エルフマン
俳優:ジョニー・デップ(エドワード・シザーハンズ) ウィノナ・ライダー(キム)
   ダイアン・ウィースト(ペグ) アンソニー・マイケル・ホール キャシー・ベイカー 
   アラン・アーキン ヴィンセント・プライス
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら






コメント・批評

午前十時の映画祭で上演していたので、久しぶりに鑑賞。
やはりコクがあっておもしろいな、この作品は、と再確認しました。
雪の華が散る場面でウィノナ・ライダーさんが踊る場面は映画史に残る美しさ。
本作はカップルがクリスマスに観る映画として最適です。
でも、ただのロマンティック話ではありません。

本作は、まるで映画のセットのような(セットなのですが:笑)キッチュな街並みを映し出すことから始まります。
その後も、エドワーズの住む山を除けば、ほぼこのキッチュな「世界」で物語は進行します。
おとぎ話の衣装を映画の身にまとわせて、その実、現実世界こそがキッチュだと監督は言うかのようです。

映画の中で根っからの善人はエドワード(ジョニー・ディップさん)ただ一人。
山からやってきた人造人間。
なのにキッチュな世の中でただ一人だけ「実存」する。
もちろん現実にそんな人類は存在しませんし、
存在したとしたら、ふつうの生き方では生存できませんから、
創造主の科学者は彼に武器/凶器にも使えるシザーを与えたわけです。

ところが創造主は何の気まぐれか、
エドワードならやっていけると考えたのか、
自分の死期を悟って、愛される姿に変えて野に放とうと思ったのか、
創造主は考えを変えて、シザーの替わりにホンモノの腕を用意。
でも遅過ぎました。

終盤で、シザーは本物の凶器となり、人を殺めます。
しかしその野蛮は一瞬で終わり、愛する人は傷つけません。
その後は毎年クリスマスの時期に雪を降らせるという優しい使い道がシザーハンズの役目。
エドワードはおそらく永遠に生き続けることでしょう。

ホンモノの腕を持っていたならキッチュにまみれ、きっと長生きはできなかったはず。
だとすると、遅過ぎたわけではなかったのでしょうか。それとも、
愛されることがなかった淋しさは死ぬより辛かったでしょうか。あるいは、
愛されているはずだと信じて氷を削り続けたのでしょうか。

エドワードがシザーハンズという武器を持っていることには、たくさんの示唆が含まれています。
例えば現存するほとんどの国家は国家軍(名称が国防軍であろうと自衛隊であろうと)を有しています。
軍事力を持った国家が他の国家国民から愛され敬意を払われることがありうるでしょうか。
真に友好的な外交は、軍事力というシザーハンズを捨て、やさしく相手をハグできる手に付け替えることでしか実現できないのではないでしょうか。
とかね。

全編を通じて、アイロニーに充ちたオトナの映画。
このような「毒素」を、最近のティム・バートンさんは失ってしまったように見えます。


最初の鑑賞時、出演者の中で、ダイアン・ウィーストさんの演技がいちばん印象に残りました。
キム(ウィノナ・ライダー)さんの母親ペグ役。
エドワードを一人かばい、家に迎え入れた理解者です。
彼女がキッチュな街並みのご近所さんのドアチャイムを鳴らし、「エイボンレディー」と告げる場面から、私はこの映画の世界に取り込まれたのでした。
のちに、彼女がアカデミー助演賞を二度受賞した女優だと知った時は、そりゃあそうだろうなと思いました。
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月06日

『Vision ビジョン』

データ
『Vision ビジョン』

評価:☆☆☆・・・・・・・
年度:2018年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:河瀬直美
音楽:小曽根真
俳優:ジュリエット・ビノシュ 永瀬正敏 森山未來 夏木マリ 岩田剛典 田中泯 白川和子 ジジ・ぶぅ
製作国:日本、フランス
allcinemaの情報ページはこちら






コメント

たいへん残念な映画でした。
作品になっていません。

わたしの家には河瀬直美さんの「空」の文字の書が飾られています。
退職祝いに友人が贈ってくださったのですが、
まるでパンダかアナグマの顔のような悠々としてどこかとぼけたその書はとても素敵です。
河瀬さんの映画もたとえば『あん』は傑作だと考えています。

ところが本作はどうしたことでしょう。
悠々とした、あるいは超然とした、河瀬さんのどこか俯瞰的な視点が消え、
あざとく、あるいは焦った印象がぬぐえません。

これだけの役者を揃えているのに、世界観が自立しているように見えるのは夏木マリさんだけで、後の方々はとても断片的な存在でした。(☆一つ分は夏木さんに捧げます)
ハーモニーがないのです。
どういう映画を作りたいのか、という意志が見えないのです。
聞けば、みなさん吉野の山で暮らしてから撮影したとか。
もしかして山に同化されて背景になってしまいましたか。

それとも、言い過ぎかもしれませんが、賞獲りを狙いすぎましたか。
「ビジョン」という事象・概念の用語は作中で日本語としても使われるのですが、これには違和感がありすぎました。
「びじょん」という語感の古来からの日本語はちょっと思い当たりません。

延々と吉野の杉の森の映像が映し出されます。
それはそれは美しい風景ですが、あくまで人工林です。
ところが、作中でパワースポット的に描かれる場所は杉林ではないのです。
わたしの目にも、いいところ見つけましたなあ、さすが河瀬さん、森山未來さんの呪術的な踊りにふさわしい、
と思うのですが、そこは谷あいの雑木林?スポット。
では吉野杉の人工美林は何のために長回しを?
海外へのアピールとしか思えないわたしは鑑賞眼の無いやつでしょうか。

後で知ったのですが、
「エグゼクティブプロデューサー:EXILE HIRO」という文字を見てのけぞりました。
岩田剛典さんという役者も彼の傘下なのですか。
それならこの作品のできばえも仕方ないのか、EXILE水準なのかと諦めました。
HIROさん、岩田さん、河瀬さん、、、カンヌのレッドカーペットを歩けなくて残念でした、と申しておきましょう。
  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月04日

『焼肉ドラゴン』

データ
『焼肉ドラゴン』

評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:鄭義信
原作:鄭義信(戯曲)
俳優:キム・サンホ(父) イ・ジョンウン(母) 真木よう子(長女) 井上真央(次女)
   桜庭ななみ(三女) 大泉洋(次女の夫) 大谷亮平
   ハン・ドンギュ イム・ヒチョル 根岸季衣
製作国:日本
allcinemaの情報ページはこちら



写真は全て映画の公式HPから

コメント

和歌山市で映画『焼肉ドラゴン』を観てきました。
1970年前後の尼崎「朝鮮人部落」内のホルモン屋さんのお話。
生駒山と伊丹空港が借景になっています。
西宮市に住み、父が尼崎で働いていた私にはかなり懐かしい風景でした。

一家が(一帯が)立ちのきを迫られていること、
息子が中学校でイジメにあっていることを除くと、
済州島四・三事件や朝鮮併合、戦争のことなど大状況の難しい話は背景に収めていて、
映画の中心は家族の物語です。

苦しいことが続いても、明日はきっと良い日になるに違いないという父親のモットーが反映された、明るい映画だと言っておきましょう。
ただし長女が北朝鮮、次女が韓国へ移住する(帰国する)シーンで、
地上に影を落としながら爆音を立てて飛行機が上空を横切リます。
不安の暗喩ですよね、これは。

真木よう子さん、素晴らしい。井上真央さん、うまい。桜庭ななみさん、可愛いくもたくましい。
私はこのくらいの表現しかできないのですが、妻の三姉妹評はもう少し充実しています。
「長女は優しい設定だけど、真木よう子さんを起用するということは、韓国人には優しさと強さが求められるということかな。次女は巻き舌でポンポン言う。三女はぶっ飛んでる。三人ともあまり笑顔を見せない。」
そうですね、韓国人は日本人より笑顔が少ない気がします。それはイカツイからではなく、(日本人がよく見せる)追従笑いやトラブルを避けるための笑顔が韓国では少ないからではないでしょうか。私はそれを強さだと考えています。
あ、少し話題が逸れました。

以上の三姉妹をはじめ、大泉さん、大谷さんなど日本の役者陣も熱演していましたが、
何と言っても、三姉妹の両親役のハン・ドンギュさんとキム・サンポさんの年季の入った確かな芝居はもう感涙ものでした。
二人とも韓国の役者さんで在日の方ではないのですが、「在日」を完全に理解した上での演技のように感じました。
その演技を見るだけでも本作はおすすめできます。


ちょうど私はその三日前に鶴橋・桃谷あたりをうろついていたので本作のテーマはタイムリーでした。
その時買ってきた鶴橋の岡村商店さんのキムチとマッコリで、帰宅後は夫婦で映画に乾杯しました。

そうそう、もうすぐ『済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語』の中古本が届くはずなので、
これでもっと勉強せなあきまへんな。


良い映画でしたが、小さな不満を一つ書いておきます。
本作は「ドラゴン」という名の焼肉屋が舞台なのですが、
ホルモンなど韓国料理の質素でも美味しそうなアップの映像がほとんどありませんでした。
食べ物屋さんが舞台なのに惜しいではありませんか。
元が演劇でしたから、映画化に当たって考えが及ばなかったのでしょうか。
その代わり、やかんに入ったマッコリが「マッコリあるある」・・うまそうでした。


さらに批評を書きたいのですが、長くなりそうでまとまりません。
とりあえずコメントだけでアップしておくことにします。






  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画

2018年11月02日

『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

データ
『フルメタル・ジャケット』
FULL METAL JACKET
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆・
年度:1987年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。ビデオ、DVDで多数回視聴。
監督:スタンリー・キューブリック
原作:グスタフ・ハスフォード
俳優:マシュー・モディーン(ジョーカー) アーリス・ハワード(カウボーイ) 
   ヴィンセント・ドノフリオ(パイル、Gomer Pyle) アダム・ボールドウィン(アニマル・マザー) 
   R・リー・アーメイ(ハートマン軍曹) ドリアン・ヘアウッド(エイトボール) 
   ケヴィン・メイジャー・ハワード(ラフターマン)
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら



SUNSET BOULEVARD VIA GETTY IMAGES


コメント

戦争そのもの、戦争とは何かを生一本に描いた大傑作です。
高校で政治経済や倫理の授業の教材として使わせていただいたため、数十回観ていますが飽きません。
たいしたものです。(批評欄にもう少し詳しく書きます。)

それなのに私が本作に☆10を差し上げないただ一つの理由は、キューブリック監督の飛行機嫌いのせいです(笑)
アメリカからイギリスに移住した彼は、撮影場所を頑としてイギリスから動かさず、その結果しおれた輸入ヤシ(だけ)がしょぼしょぼ植えられた「ベトナム」を再現したからです。
ですから映像に東南アジアのあの暑く湿った空気感が皆無。
ほんまにもう、困ったわがまま監督やね。



これ以降の写真はすべてDVDより


本作に登場するアメリカ軍兵士たちは主に海兵隊員です。
海兵隊 (United States Marine Corps)とは「陸海空軍の全機能を備え、アメリカ軍が参加する主な戦いには最初に、上陸・空挺作戦などの任務で前線に投入され、その自己完結性と高い機動性から脚光を浴びている緊急展開部隊」です(wikipediaより)。
陸海空軍のいずれからも独立しています。
国内戦には投入されず、常に海外で活動するところから、別名を
<殴り込み部隊>と呼ばれます。
日本にも常駐しており、普天間基地がよく知られていますが、上記の性格上、沖縄を守る任務などありません。


第二次大戦後のアメリカは、世界でもっとも他国に兵を送り戦争を実行した国家です。
それらの行為は世界の安寧平和のため、すなわち「世界の警察」を大義名分としていますが、もちろんその原動力は世界一肥大した産軍複合体の要求です。戦争が起こらなければ儲からない軍需産業と、戦争が起こらなければ利権や栄達が実現できない国家・軍とは共通の利害関係があるからです。戦争が彼らの望みを叶えるために起こされています。
本作ではこのような戦争の原因について追求していませんが、ラストシーンで兵士たちがミッキーマウスマーチを歌いながら他国ベトナムを焼き払いその大地を行進していく姿こそ、産軍複合体の象徴と捉えるべきだと思います。
アメリカの戦争にはいつもミッキーが寄り添い、応援していますから。



民間人と「ベトコン」の区別なく射撃する兵士:彼のセリフは批評3に掲載


批評1:映画の前半と後半のギャップについて

同じ時期に製作された『プラトーン』は1987年度アカデミー作品賞・監督賞を受賞していますので、無冠のこの本作は同じベトナム戦争を題材にした映画として後塵を拝してしまいました。
(私は本作の方をより高く評価します)
キューブリック監督としては忸怩たる思いでしょうけれど、オリバー・ストーン監督の『プラトーン』からは東南アジアのジャングルの熱気がプンプン伝わってきましたよ、監督。

恋愛はもちろん美しい風景などの情緒が何もない戦争映画です。
それどころか、後半には観客を退屈させる時間帯まであります。
そのせいで、本作の前半と後半との落差を嘆くレビューアーには枚挙のいとまもありません。



「囮生殺し」シーン


もう少しだけ詳しく書きましょう。
時代はベトナム戦争の頃、1960年代〜70年代初頭です。
ベトナム戦争は、冷戦の時代に社会主義国の盟主ソ連に対する防波堤としてインドシナ半島に的を絞った資本主義国アメリカが、ベトナムに兵を送って始まった戦争です。
アメリカはその傀儡(かいらい)政権南ベトナム政府をコントロールし、南ベトナム内の社会主義・民族主義ゲリラ(アメリカはベトコンと呼びました)や北ベトナム(社会主義国)と戦いました。
この戦いは長期化し、次第に劣勢になったアメリカは、これまでより多くの兵士が必要になったわけです。

本作の前半は、その頃米軍海兵隊に志願して入隊した若者が、訓練所で受ける厳しい訓練を描いています。
訓練教官ハートマン軍曹(R・リー・アーメイさん)の下劣極まる悪口雑言と、彼によるいじめを伴う猛訓練、そして仲間によるリンチの結果壊れてしまったパイル(ヴィンセント・ドノフリオさん)の戦慄の行動はよく知られています。
この前半は、緊張感に圧倒されるような凝縮した雰囲気であっという間に過ぎていきます。
(訓練の「意義」については批評2で書きます。)



ジョーカー(左)の二律背反


転じて後半はとてもゆるやかに進行します。
訓練所を巣立った新兵たちは戦場の各地に散らばるのですが、主役格のジョーカー(マシュー・モディーンさん)は現地の報道部に配属されたので、まだ戦闘は未体験です。
報道部の日常はのんびりとして危険が少なく、ジョーカーは責任者に口ごたえができる余裕があるほどです。

前半の緊張感に比べ、弛緩したような空気が流れていますが、まさにジョーカーはそういう環境の中で軍務を行っているわけです。
この弛緩も戦争の側面だとキューブリック監督は言うのです。
ジョーカーは、戦場に行かない安堵と同時にいつまでも戦闘を体験できないじれったい焦燥にもかられているというわけです。
この二律背反、矛盾も戦場の側面だとキューブリック監督は言うのです。

つまり、まさしく監督は戦争そのものをストレートに描いていると言えます。
ドラマ仕立てに作っていないところがいかにもキューブリックさんの面目躍如じゃないですか。
そう言う視点から、私は本作の後半も高く評価しているのです。

さらに後半のさらに後半では衝撃的な戦闘が行われます。
ヴェトナム民族解放戦線(ベトコン)側の狙撃兵による囮生殺し戦術はその一つです。
さらに強烈なのはその続きの場面です。前半のパイルの自死と同じくらいの。
ただ、日本人にはその衝撃がうまく伝わらないきらいがありました。
私はその原因の一つを、日本人が歴史や国際社会に無関心になってしまったせいだと考えています。
そしてさらに、欧米人とアジア人の死生観の相違のようなものに影響された結果だと。
しかし本稿では原因について深入りはしません。
なお、この衝撃のシーンの映画的意義については批評3で書きます。



懲罰=イジメ




批評2:海兵隊の訓練学校の訓練

シリアやソマリアのように、不幸にも身近な場所でいま現に戦闘が行われている地域・国家を除いて議論します。

強制的な徴兵であれ(海兵隊のような)志願兵であれ、兵士になる前は「ふつうの人」でした。
人殺しの経験はもちろんありません。それどころか気の合わない隣人や同級生とも「ふつうの付き合い」をしていた人がほとんどだったはずです。
「ふつうの人」は、盗んだり破壊したり殺したりすることは良くないことだと信じて生きています。
また同時に「ふつうの人」は、気に入らない指示や納得のいかない命令に対して疑問を感じます。勇気があればNO!も言えるでしょう。
(民主主義化が進んだ国ほどそういう傾向があります)

ところが、軍隊の意義、兵士の役割はこれら「ふつうの人」の価値観とは全く異なります。
軍隊は人類史上そもそも殺人と破壊のために存在していましたし、その本質は現代においてもなんらかわりがありません。
マックス・ヴェーバー(ウェーバー)の定義によれば暴力装置ということになります。
抑止力だろうと反論したい方には、殺戮や破壊する能力のない軍隊など抑止力にならないだろう、と申し上げればすみます。

軍隊の意義が暴力にある以上、兵士は暴力をふるえる機能を持たねばなりません。
必要な場合はためらいなく人を殺し、敵の施設を破壊しなければなりません。
しかし下級兵士個々は判断力を期待されていませんし、そういう訓練を受けていません。
ですから、兵士は必ず上官の命令に反射的に応えなければなりません。

つまり、「ふつうの人」がふつうのままでいては兵士になれないのです。
ここに、本作のような新兵の訓練所における訓練の必要が生まれるわけです。
1)これまでの価値観・常識を捨てる。(人格の地軸を逆転させる。)
2)命令には絶対服従する、(その習慣を体に叩き込ませる。)
その両方の要素を備えた人間に生まれ変わらなければならないわけです。

ハートマン軍曹による悪罵を含んだ非人間的訓練の目的はここにあります。
したがって、程度の違いや方法の違いはあったにせよ、全ての現代国家の軍隊(自衛隊を含む)の訓練は同じように行われていますし、そうでなくてはならないという論理的帰結になります。
キューブリック監督はその真理を映像化しているのです。



生徒間のリンチ:タオルに包んだ石鹸による殴打は傷が残りにくく、大日本帝国軍でも横行しました


批評3:ただの兵士となったジョーカー

さて、主役を張るジョーカーは、ここまではやや狂言回し的な役割。
しかし終盤に、戦争そのものを体現する存在になります。

上述のように、ジョーカーは矛盾した青年。ハートマン教官に褒められるほどガッツはあるのですが、知性が邪魔をしているのかどこか中途半端。
ヘルメットには殺し屋と書きながら、胸にはピースマークのピンバッジ。

輸送ヘリの射撃手(ティム・コルセリさん)が「(女子供を殺すのは)簡単さ、動きがのろいからな」、「ホント、戦争は地獄だぜ!」、「逃げる奴は皆ベトコンだ、逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ」などと笑いながら民間人を射撃することにも納得していないはず。

スナイパーと直接対面した時も、戦闘経験のなさが露呈して銃が起動しない失策。
相棒のカメラマン兵ラフターマンに命を救われる始末です。

しかし床に倒れ瀕死のベトナム人スナイパーが「shoot me」(私を射って)と懇願するのに負けて射殺することで、それまで中途半端だったジョーカーがいっぱしの悪虐非道の兵士に変身します。
これぞ海兵隊魂。
殺すために生まれた男。

ラストで皆と一緒に満足そうに「ミッキーマウス・マーチ」を歌いながら行進することでそのことは表現されるのです。

ここで詳しく書くことは煩雑なのでしませんが、まったく馬鹿馬鹿しい人類の矛盾ですが、戦争にも国際ルールがあるのです。
(誤解しないでください。私は戦争それ自体が最大のルール違反だと考えています。)
例えば民間人を殺害してはならない、無抵抗な捕虜は保護されねばならないのです。
上記のヘリの射撃手はこのルールを破った殺人鬼ですし、ジョーカーもルール違反の殺人者なのです。

大日本帝国による重慶の無差別爆撃、南京虐殺、バターン死の行進などはもちろんルール違反。
同様にアメリカによる東京大空襲や原爆投下もルール違反です。
ただし勝者は普通裁く側にまわりますから、アメリカの罪は不問に付されました。



スナイパーは壁の穴から敵を狙撃する:ここでジョーカーの旧友カウボーイが戦死

終盤最大の衝撃シーンは、ジョーカーの変身の直前。
凄腕の狙撃でジョーカーたちを足止めし、囮生殺しで全滅させようとした狙撃手はたった一人だったこと。
しかもそれがおさげの少女だったこと。
(ジョーカーはその少女を殺害したのです。)

ジョーカーたち海兵隊員は、あの過酷な訓練を受けてようやく戦場に出ました。
しかしこの少女はヴェトナム民族解放戦線の一員。
もちろん射撃訓練はしたでしょうが、アメリカ海兵隊のような組織的な学校があるはずがないゲリラです。

彼女たちは「ふつうの人」ではないのです。
なぜなら、彼女たちの住む大地は、外国(フランス→日本→フランス→アメリカ)に蹂躙され続けていたからです。
極端に言えば、生まれながらに銃を持っていた人々なのです。
しかも、侵略国家を憎んで戦う意志も生まれながらに持っていたはず。
戦争の意義がよくわからないままベトナムにやってきた海兵隊員とはまるで次元の違う戦いを戦っているのです。
誠に不幸。
そして、かなうはずがありません。

このシーンで、大国が小国を侵略する戦争というものに、一瞬にして目を向けさせるのです。

キューブリック監督、さすがです。
彼を舐めるわけにはいきません。



スナイパーはたった一人の少女だった


  


Posted by gadogadojp at 10:00Comments(0)映画