2018年07月08日
『道』:鎖を切り続ける日々
データ
『道』(La Strada)
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年度:1957年
鑑賞:ビデオで数回視聴。午前十時の映画祭でスクリーン視聴。
監督:フェデリコ・フェリーニ
音楽:ニーノ・ロータ
俳優:アンソニー・クイン(ザンパノ) ジュリエッタ・マシーナ(ジェルソミーナ)
リチャード・ベースハート アルド・シルヴァーニ マルセーラ・ロヴェーレ
製作国:イタリア
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コメント
フェリーニの「道」はあまりに完璧な映画。
具体が極まって象徴が無数に煌めく。
あるいはフェリーニの意図すら超えて、スクリーン上のピラミッドのように自立しているから、
私たちは自分の年齢と人生のていどに応じて幾度も色彩を変えて仰ぎ見ることができる。
だからわかりやすい映画だと錯覚させてくれる。
TV画面で何度も観た作品だけれど、
スクリーンで初めて観たこの日、そのように思った。

批評
海から始まり海に終わるロードムービー。
その原題名も『La Strada』。
道路、と訳すより街道と呼びたい。
イタリア内陸の土ぼこり舞う町を結ぶ未舗装の街道を、
二人の男女の芸人が乗る荷車バイクが生きるために次の町へと進んでいく。
無教養で貧しく
心を守るバリヤーを持たない女は、海辺の村で親に売られた。
買ったのは芸人。死んだ姉も彼に買われた。
それでも彼女は夢見る少女のような女性。
知らない土地に出たかった。
芸人と旅ができるワクワク感も抑えられない。
女は、自分を買った男の役に立とうと努めるが、
男は彼女に心を開かない。
男と女になったその後、
ちょっぴり妻気分に浸ってみるが、
男は他の女と遊びに出かけて帰らない。
自分は役に立たない存在ではないかと落ち込み、
心を閉ざす。
男は芸の手伝いの出来なくなった女を持て余す。
さいごには街道でラッパを添えられて男に棄てられ、
どこか海辺の町で死んでいく。
一方
他人との関係性の中で生きることのできない自分本位で無教養で不器用な男は
心を閉ざした女を街道で棄てた。
ただ鎖を切り続ける芸だけではなく、
一時は彼女と軽喜劇まで一緒に演じられたのに。
彼女の大事な人を殺してから彼女は完全に心を閉ざしたから。
ある日海辺の町で、棄てた女が好きだったメロディーを耳にし、
棄てた女がこの町で世を去ったことを知る。
ようやく喪失したものの大きさに気付く男。
女が自分に心を開き、役に立ちたい一心で努めていたことを思い出す。
自分の犯した罪を知る。
やがてどこからか優しい赦しの声を聞き、
悔いに身もだえ号泣する。
男の名はザンパノ。乱暴な男。
女の名はジェルソミーナ。ジャスミンのような女。
女は男を呼ぶ時にいつもその名を呼ぶ。
「ザンパノ?ことばがわたしたちと違うわね。どこで生まれたの?」
「ザンパノ、ねえ、少しは私が好き?」
しかし男はついに最後まで、ただの一度も女の名を呼ばない。
「うるさい、早く寝ろ。」

二人の近くに綱渡り芸人が現れる。
彼はいつも男(ザンパノ)をからかうことで関係性を求め続けていた。
彼は女に生きる意味を教えた。
この世には無駄なものはない。みんな何かの役に立っている。たとえこの石ころでも。
自分を能無しの女だと思い込んでいるジェルソミーナにとって、
それはまるで神の言葉のようで、勇気付けられた。
だからそのあともいっそう
女(ジェルソミーナ)は男(ザンパノ)の名前を呼び、
自分の存在を認めさせようと試みた。
私はここよ、私を見て。
しかし関係性を求め続けるその試みは失敗する。
男はその二人の求めに対して答える術を知らない。
二人は自分の世界にとって邪魔者でしかない。
だから
ついにその二人を殺してしまう、あるいは置き去りにしてしまう。
己をを必要とするこの世でたった二人だけの人物を、
男は自らこの世から消してしまうことになった。
自縄自縛の悲劇。
男はこれまで関係性を学ぶことのない人生の中で育ち生きてきたはず。
明日にも目の玉が飛び出して芸ができなくなる悪夢におびえながら、
その日を生きるためには、
ただ鎖を切り続けることしかできなかった。思いつかなかった。


砂ホコリ舞う街道沿いで、
自分で胸に巻き付けた鎖を自分で切り続けて生きている、
今も切り続けている男は誰だ。
棄てる女に添えようと思わず喇叭(ラッパ)を取った己の無骨な手の意味に気付かず、
今も他人をかえりみることなく、
自縄自縛の鎖を切り続ける人物が
わたしやあなたでなければよいが。
『道』(La Strada)
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年度:1957年
鑑賞:ビデオで数回視聴。午前十時の映画祭でスクリーン視聴。
監督:フェデリコ・フェリーニ
音楽:ニーノ・ロータ
俳優:アンソニー・クイン(ザンパノ) ジュリエッタ・マシーナ(ジェルソミーナ)
リチャード・ベースハート アルド・シルヴァーニ マルセーラ・ロヴェーレ
製作国:イタリア
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コメント
フェリーニの「道」はあまりに完璧な映画。
具体が極まって象徴が無数に煌めく。
あるいはフェリーニの意図すら超えて、スクリーン上のピラミッドのように自立しているから、
私たちは自分の年齢と人生のていどに応じて幾度も色彩を変えて仰ぎ見ることができる。
だからわかりやすい映画だと錯覚させてくれる。
TV画面で何度も観た作品だけれど、
スクリーンで初めて観たこの日、そのように思った。
批評
海から始まり海に終わるロードムービー。
その原題名も『La Strada』。
道路、と訳すより街道と呼びたい。
イタリア内陸の土ぼこり舞う町を結ぶ未舗装の街道を、
二人の男女の芸人が乗る荷車バイクが生きるために次の町へと進んでいく。
無教養で貧しく
心を守るバリヤーを持たない女は、海辺の村で親に売られた。
買ったのは芸人。死んだ姉も彼に買われた。
それでも彼女は夢見る少女のような女性。
知らない土地に出たかった。
芸人と旅ができるワクワク感も抑えられない。
女は、自分を買った男の役に立とうと努めるが、
男は彼女に心を開かない。
男と女になったその後、
ちょっぴり妻気分に浸ってみるが、
男は他の女と遊びに出かけて帰らない。
自分は役に立たない存在ではないかと落ち込み、
心を閉ざす。
男は芸の手伝いの出来なくなった女を持て余す。
さいごには街道でラッパを添えられて男に棄てられ、
どこか海辺の町で死んでいく。
一方
他人との関係性の中で生きることのできない自分本位で無教養で不器用な男は
心を閉ざした女を街道で棄てた。
ただ鎖を切り続ける芸だけではなく、
一時は彼女と軽喜劇まで一緒に演じられたのに。
彼女の大事な人を殺してから彼女は完全に心を閉ざしたから。
ある日海辺の町で、棄てた女が好きだったメロディーを耳にし、
棄てた女がこの町で世を去ったことを知る。
ようやく喪失したものの大きさに気付く男。
女が自分に心を開き、役に立ちたい一心で努めていたことを思い出す。
自分の犯した罪を知る。
やがてどこからか優しい赦しの声を聞き、
悔いに身もだえ号泣する。
男の名はザンパノ。乱暴な男。
女の名はジェルソミーナ。ジャスミンのような女。
女は男を呼ぶ時にいつもその名を呼ぶ。
「ザンパノ?ことばがわたしたちと違うわね。どこで生まれたの?」
「ザンパノ、ねえ、少しは私が好き?」
しかし男はついに最後まで、ただの一度も女の名を呼ばない。
「うるさい、早く寝ろ。」
二人の近くに綱渡り芸人が現れる。
彼はいつも男(ザンパノ)をからかうことで関係性を求め続けていた。
彼は女に生きる意味を教えた。
この世には無駄なものはない。みんな何かの役に立っている。たとえこの石ころでも。
自分を能無しの女だと思い込んでいるジェルソミーナにとって、
それはまるで神の言葉のようで、勇気付けられた。
だからそのあともいっそう
女(ジェルソミーナ)は男(ザンパノ)の名前を呼び、
自分の存在を認めさせようと試みた。
私はここよ、私を見て。
しかし関係性を求め続けるその試みは失敗する。
男はその二人の求めに対して答える術を知らない。
二人は自分の世界にとって邪魔者でしかない。
だから
ついにその二人を殺してしまう、あるいは置き去りにしてしまう。
己をを必要とするこの世でたった二人だけの人物を、
男は自らこの世から消してしまうことになった。
自縄自縛の悲劇。
男はこれまで関係性を学ぶことのない人生の中で育ち生きてきたはず。
明日にも目の玉が飛び出して芸ができなくなる悪夢におびえながら、
その日を生きるためには、
ただ鎖を切り続けることしかできなかった。思いつかなかった。
砂ホコリ舞う街道沿いで、
自分で胸に巻き付けた鎖を自分で切り続けて生きている、
今も切り続けている男は誰だ。
棄てる女に添えようと思わず喇叭(ラッパ)を取った己の無骨な手の意味に気付かず、
今も他人をかえりみることなく、
自縄自縛の鎖を切り続ける人物が
わたしやあなたでなければよいが。
Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)
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