2019年05月10日

『ヴィレッジ』:共同幻想は続くよどこまでも

データ
『ヴィレッジ』
The Village
評価:☆☆☆☆☆☆・・・・
年度:2004年
鑑賞:2019年BS/CSで視聴。
監督:M・ナイト・シャマラン
俳優:ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー) ホアキン・フェニックス(ルシアス) 
   エイドリアン・ブロディ(ノア) ウィリアム・ハート(エドワード) 
   シガーニー・ウィーヴァー(アリス) ジュディ・グリア(キティ)
製作国:
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『ヴィレッジ』:共同幻想は続くよどこまでも

Kobal/TOUCHSTONE/BLINDINGEDGE/TheKobalCollection/WireImage.com



コメント

傑作『シックスセンス』のシャマラン監督の作品というだけの理由でついつい録画し観てしまいました。
そんないい加減な動機でしたが、思わぬ拾い物をした気分になりました。☆8か6でずいぶん迷いました。☆7はあり得ないと思うところがおかしいですね。結局☆6にした理由は批評欄に書くつもりです。ただどこかで、俺は☆8だ、と言う方と出会ったら、何食わぬ顔で「わたしも☆8です」などと迎合してしまうかもしれません(笑)。そんなふうに評価を迷わせる映画ですから、わざわざ観る値打ちはあるじゃないかなと思いますよ。

時代はどうやら19世紀末。物語は、森の中に孤絶し自給自足している村が舞台です。村人は総じて上品に穏やかに暮らしていますが、時に怯えた様子を見せます。なぜなら村の周囲の森には何か恐ろしい生き物が棲息しているからです。村人はとても閉鎖的で他の地域(たとえば「町」。これも恐怖の対象です。)と交流をしないのですが、それはその恐ろしい生き物が森に侵入する村人を殺してしまうからです。ですから、物語の大半は村内の出来事です。

ところが或る事件が起こり、ある娘がどうしても森を抜けて「町」に行きたいというのです。村の戒律では許されないことなのですが、リーダーはこれを許します。なぜならその娘は盲目だからです・・・

ホラーを加味したミステリー仕立ての本作ですが、観客は早い段階で「村の秘密」を推測できるでしょう。ただそれでもなおどんでん返しが起こるのですが、それも辛うじて想定内だった、と思う人も多いでしょう。

けれど、よく練られ締まったテンポで話は進みますから、最後まで飽きないのではないでしょうか。

主役の盲目の娘アイヴィーを演じたブライス・ダラス・ハワードさんの毅然とした演技が印象的でした。
シガーニー・ウィーヴァーさんの演技もとても的確でした。彼女の微妙な表情変化をお見逃しなく。
知的障害を持つノアに扮したエイドリアン・ブロディさんの行動には少し説得力を欠いたように感じましたが、これは脚本や演出が原因でしょう。いえ、私の読み込み不足かもしれません。

伏線がきめ細かくはられたシンボリックな良い映画です。

いつものことですが、以下ではネタバレします。



批評

この作品の良いところは、鑑賞中だけでなく、後からも色々考えさせられるところです。
このヴィレッジ(村)が何かの暗喩(metaphor)であるとすれば、それはいったいなんだろう、と考えてしまうのです。
観客に後を引かせる映画としてはたいへんよくできています。

残念なのは、その暗喩の対象が○○である、と思いついた場合でも、そのあと自分自身の知的レベルを深め進める役にはあまり立たないところです。「そっか、ヴィレッジは○○のことなんやな」と気付いた嬉しさ、あるいは情けなさで終わってしまいますから。
何が不足していたのでしょうか。


この村は共同幻想で成り立っているのです。
怪物はいないし、夜の恐ろしい咆哮は偽物です。
年長者たちがかつて出会った辛い体験から、自分や子供たちが再びそのような目に合わないように文明から逃げ出して村を作り、子供たちを洗脳していたのです。


実在しないものを実在していると集団で思い込むことが共同幻想です。
宗教を信仰しない私なら、例えば「神」は共同幻想です。
しかし人間は往々にして共同幻想を実体化してしまいます。
神を実在すると考えた人類は、あたかも神が実在するかのように教会組織を打ち立て、神の実在幻想を支えてきました。その結果、信仰心の篤い人にとって「神による支配」は当たり前のことになったのです。神に会ってもいないのに。

他にも枚挙のいとまがありませんが、例えば学歴社会、女性差別、国家などは共同幻想の好例です。
人類百万年の歴史の中で国家などほんのまばたきの間存在しているだけです。
もとはなかった国家という幻想は、人々にとっていつしか「あって当然の堅固な体制」になりました。
いまは人類が両手を上げて国家という共同幻想を(崩れないように)支えているのです。
しかし私たちは「具体的な国家」を見たことはないのです。見ている知っている、助かっているひどい目にあっている、などと思うのは錯覚です。国家が存在するかのように作られた体制を見ているだけなのです。国家の実在は当然だと思うから、「国家」による支配を受け入れているのです。支配しているのは国家でなく一握りの名前のある人間に他なりません。


本作の村人にとって、森の怪物は実在します。
しかしそれは、年長者(村の創始者)が人為的に作り上げた共同幻想なのです。年長者はそれが幻想だということを熟知しています。


上記の事件が起こり、村は共同幻想が崩壊する危機を迎えます。
本当は、時代は19世紀末ではなく現代だったのです。
しかし、盲目の娘は現代に足を踏み入れたものの、まだ幻想に縛られ、怪物を信じ続け、現代を感知することはできませんでした。
そこでリーダーをはじめとする年長者たちは、これからも村人に嘘をつき通し、取り繕うストーリーを考え、共同幻想を継続することを決意するのでした。


もうお分かりですね。
本作のこの村は、例えば現存する国家を暗喩しているのです。
具体的な特定の国家ではなく、国家それ自体を。
支配者だけが真実を知り、国民には嘘を突き通す国家という共同幻想を。

きわめて優れた着想の優れた映画だと思います。

でも、そんなことわかっとる、日本だってそうやろ、日本の周囲の国が危険であると思い込まされているだけやろ、と観客が嬉しくあるいは情けなく気付けばそれで終わってしまう映画でもあるのです。気付きの後どうするか、そのヒントが不足しているのですね。
ですから☆は6つです。
え?あなたは傑作だと思いましたか?
ならば私も☆8に変えましょう(笑)


念のために申し添えますが、これは批評ですからシャマラン監督の意図がどうあれ、それは関係ありません。




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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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