2018年09月30日
『パラダイム』
データ
『パラダイム』PRINCE OF DARKNESS
評価:☆☆・・・・・・・・
年度:1988年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:ジョン・カーペンター
俳優:ドナルド・プレザンス ジェームソン・パーカー リサ・ブロント ヴィクター・ウォン
デニス・ダン アリス・クーパー
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら

コメント
嗚呼カーペンター監督。。
引き締まった名作『遊星からの物体X』の見る影も無い駄作です。
脚本も監督が書いています。言い訳はできません。
タイトル(邦題)も残念ですが、それは批評欄に書きます。
俳優陣がお粗末です。(主役たちがもう致命的)
設定がお粗末です。
展開がお粗末です。
取り柄といえば、サタン信奉者でゾンビ風のアリス・クーパーさん(ロックミュージシャン)の怖さと、
1988年時点で「サタンは神の子」という文言を映画史上に残したことくらいでしょうか。
あ、アジア系二人の俳優陣は存在感を示していました。
タグ付けは監督とこの三人に絞っておきます。
批評
作品は作品として観なければならない。
世評や監督の他作品などはもちろん、
邦題の適切さ、キャッチコピーの是非などに惑わされてはいけない。
という正論を私は認めますけれど、それでもやはり私など惑わされてしまうのですよ。
その惑いが良い結果を生むこともあれば悪い結果を招くこともあります。
結局は自分のせいですけれど、惑うきっかけはたいてい制作側・配給側のセンスの悪さと浅薄な儲け主義にあります。
したがって、悪い結果になることが圧倒的に多くなります。
本作は悪い結果となった好例です。
『パラダイム』という題名をなぜつけたのでしょう。
「パラダイム」(日本語では「思考の枠組み」)という概念は、20世紀の科学哲学者クーンの著述が誤解(または拡大解釈)され、一人歩きし、またたくまに世界に広がった新しい概念です。
みんなこういう概念を待っていたのでしょうね。
拡大解釈された結果、主に「パラダイムシフト」という使用法で使われました。
その詳細は、wikipediaの説明が比較的わかりやすいので、正しく知りたい方はご覧ください。
ここでは、浅はかにも私が事前に本作に期待したパラダイムシフトを簡単に紹介しておきます。
繰り返し書いていますが、私はキリスト教は片手落ち宗教だと考えています。
(『オーメン』にて詳述)
善悪の善のみをすくい上げて成立させているからです。
全知全能の絶対神はすなわち愛であり善なのに、なぜ人間世界に悪がはびこるのか、という疑問に対し「人間が過ちをおかしたから(原罪)」と解答するしか無いのです。
これがキリスト教教義のパラダイム(思考の枠組み)です。
『沈黙』その他で明らかなように、「なぜ神は救ってくださらないのか」という信者の訴えに対し、神は何一つ手を差し伸べてくれません。
キリスト教信仰の大きな矛盾点であることを誰もが薄々気がついていたはずです。
もっともその矛盾はキリスト自身が磔の上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ我が神、なぜに私をお見捨てになる)」(マタイによる福音書第27章) と叫んだとありますから、宗教成立時点ですでに意識されていたことでしょう。
その旧来のパラダイムを大転換(パラダイムシフト)するには、宗教成立時点(厳密には母教であるユダヤ教成立)で捨ててしまった異端の神々、中でもサタンに代表される悪魔群、すなわち悪の神の復活・共存という未来しかないはずです。
〜こういう道筋を期待したのですが、
登場神父の「私たちはセールスマンにすぎない」とか、古文書の「神は我が子サタンを砂漠に封じ込めた」などといい線まで匂わせながら、新しいキリスト教パラダイムを示すことはできず、サタンの復活を恐怖とともに描こうとするよくある悪魔ものから脱皮することはなかったのです。
私の勝手な期待に背いたからといってここまで低評価されてしまってはカーペンター監督にすまない気持ちもあります。
最大の要因は、原題ですらないパラダイムという用語を使った日本の配給側の無知性です。
(原題は『PRINCE OF DARKNESS」:”闇の王子”かな)
墓の下のクーンさんも、さらに誤解が誤解を招いてしまったかとお嘆きでしょう。
(もちろん、paradigmという英単語は、クーン以前からあり、例とか模範とかの意味で使われています。念のため。)
『パラダイム』PRINCE OF DARKNESS
評価:☆☆・・・・・・・・
年度:1988年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。2018年BS/CSで再視聴。
監督:ジョン・カーペンター
俳優:ドナルド・プレザンス ジェームソン・パーカー リサ・ブロント ヴィクター・ウォン
デニス・ダン アリス・クーパー
製作国:アメリカ
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コメント
嗚呼カーペンター監督。。
引き締まった名作『遊星からの物体X』の見る影も無い駄作です。
脚本も監督が書いています。言い訳はできません。
タイトル(邦題)も残念ですが、それは批評欄に書きます。
俳優陣がお粗末です。(主役たちがもう致命的)
設定がお粗末です。
展開がお粗末です。
取り柄といえば、サタン信奉者でゾンビ風のアリス・クーパーさん(ロックミュージシャン)の怖さと、
1988年時点で「サタンは神の子」という文言を映画史上に残したことくらいでしょうか。
あ、アジア系二人の俳優陣は存在感を示していました。
タグ付けは監督とこの三人に絞っておきます。
批評
作品は作品として観なければならない。
世評や監督の他作品などはもちろん、
邦題の適切さ、キャッチコピーの是非などに惑わされてはいけない。
という正論を私は認めますけれど、それでもやはり私など惑わされてしまうのですよ。
その惑いが良い結果を生むこともあれば悪い結果を招くこともあります。
結局は自分のせいですけれど、惑うきっかけはたいてい制作側・配給側のセンスの悪さと浅薄な儲け主義にあります。
したがって、悪い結果になることが圧倒的に多くなります。
本作は悪い結果となった好例です。
『パラダイム』という題名をなぜつけたのでしょう。
「パラダイム」(日本語では「思考の枠組み」)という概念は、20世紀の科学哲学者クーンの著述が誤解(または拡大解釈)され、一人歩きし、またたくまに世界に広がった新しい概念です。
みんなこういう概念を待っていたのでしょうね。
拡大解釈された結果、主に「パラダイムシフト」という使用法で使われました。
その詳細は、wikipediaの説明が比較的わかりやすいので、正しく知りたい方はご覧ください。
ここでは、浅はかにも私が事前に本作に期待したパラダイムシフトを簡単に紹介しておきます。
繰り返し書いていますが、私はキリスト教は片手落ち宗教だと考えています。
(『オーメン』にて詳述)
善悪の善のみをすくい上げて成立させているからです。
全知全能の絶対神はすなわち愛であり善なのに、なぜ人間世界に悪がはびこるのか、という疑問に対し「人間が過ちをおかしたから(原罪)」と解答するしか無いのです。
これがキリスト教教義のパラダイム(思考の枠組み)です。
『沈黙』その他で明らかなように、「なぜ神は救ってくださらないのか」という信者の訴えに対し、神は何一つ手を差し伸べてくれません。
キリスト教信仰の大きな矛盾点であることを誰もが薄々気がついていたはずです。
もっともその矛盾はキリスト自身が磔の上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ我が神、なぜに私をお見捨てになる)」(マタイによる福音書第27章) と叫んだとありますから、宗教成立時点ですでに意識されていたことでしょう。
その旧来のパラダイムを大転換(パラダイムシフト)するには、宗教成立時点(厳密には母教であるユダヤ教成立)で捨ててしまった異端の神々、中でもサタンに代表される悪魔群、すなわち悪の神の復活・共存という未来しかないはずです。
〜こういう道筋を期待したのですが、
登場神父の「私たちはセールスマンにすぎない」とか、古文書の「神は我が子サタンを砂漠に封じ込めた」などといい線まで匂わせながら、新しいキリスト教パラダイムを示すことはできず、サタンの復活を恐怖とともに描こうとするよくある悪魔ものから脱皮することはなかったのです。
私の勝手な期待に背いたからといってここまで低評価されてしまってはカーペンター監督にすまない気持ちもあります。
最大の要因は、原題ですらないパラダイムという用語を使った日本の配給側の無知性です。
(原題は『PRINCE OF DARKNESS」:”闇の王子”かな)
墓の下のクーンさんも、さらに誤解が誤解を招いてしまったかとお嘆きでしょう。
(もちろん、paradigmという英単語は、クーン以前からあり、例とか模範とかの意味で使われています。念のため。)
Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)
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