2018年09月02日
『オーメン』
データ
『オーメン』THE OMEN
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:1976年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。その後ビデオで、2018年BS/CSで再視聴。
監督:リチャード・ドナー
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:グレゴリー・ペック(ロバート・ソーン) リー・レミック(キャサリン・ソーン)
ハーヴェイ・スティーヴンス(ダミアン) デヴィッド・ワーナー(ジェニングス)
ビリー・ホワイトロー(ミセス・ベイロック)
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより
コメント
製作・公開後すでに42年を超えていまだに生き残るオカルト・ホラーの名作。
作品のストーリー、ユニークな殺し方、製作前後の奇譚など、大小の話題が有り余るほど豊富な本作品ですが、ブログや映画サイトで書かれている方が多く、私の出る幕はありません。
妻は言います。
「ソーントンが妻に相談なく秘密裏に養子をとったことが間違い。西欧男性による、<女性は庇護されるべき者だ>、と言う男尊女卑的発想が生んだ悲劇。」
「男は謝れない。だから解決のチャンスはズルズル遠ざかっていく。」
全くその通りです。
そこがじれったくもあり、だからこそ本作のようなオカルトホラー映画が成立するとも言えるわけですが。
つまり、「あ、後ろ見ろよ、なんで気がつけへんねんっ!」と同じで。
なにはともあれ、ホラー映画のスタンダードを作った本作の成功の秘訣を列挙しておきます。
1)グレゴリー・ペックさん、リー・レミックさんというスター性のある実力派俳優をオカルト映画に起用したこと。
2)英国舞台女優ビリー・ホワイトローさんの起用。怖い。
3)殺し方などのアイデアの勝利。(特にダミアンの三輪車:のちにキューブリック監督が『シャイニング』でオマージュしましたね。)
4)ギルバート・テイラーさんによるみごとなカメラワーク。彼が『反撥』を撮影したのは約12年前。『スター・ウォーズ』撮影は本作の翌年です。
5)ジェリー・ゴールドスミスさんによる不安感をあおる音学。彼の手になる映画音楽は枚挙にいとまがありません。真のプロです。
『エクソシスト』と並んで、今後もオカルト・ホラーの基礎的作品として語り継がれていきますように。
なお、妻には持論があります。
キリスト教信仰に起因する西欧のホラーよりも、湿気を帯びた日本の風土から発するような日本のホラーの方が怖い、と。
『エクソシスト』よりも『リング』の貞子の方が怖いということです。
その意見のすべてを一回で考察するのは難しいので、今回はその意見の半分だけを熟考してみました。
成果はまだ中途半端ですが、批評欄で少々書きます。

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより
批評 キリスト教徒はなぜ『オーメン』を製作するのか
私は宗教に関心がありますが、信仰心はありません。でも、
厳密に書くと、
ずっと無宗教で生きてきた私は、なんらかの宗教・宗派教義の本格的な研究をしていませんし、今後もする気はありません。
けれど、共同幻想として人類を支えてきた(歪めてきた)宗教の機能と意義については考え続けています。
新約聖書で見つけたこの部分は、ずっと気になっていました。
「サタンもしサタンを逐ひ出さば、自ら分れ爭ふなり。」
以下はマタイによる福音書12章22〜28節
ここに惡鬼に憑かれたる盲目の唖者を御許に連れ來りたれば、之を醫して、唖者の物言ひ見ゆるやうに爲し給ひぬ。
(そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。)
群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』
(すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。)
然るにパリサイ人ききて言ふ『この人、惡鬼の首ベルゼブルによらでは、惡鬼を逐ひ出すことなし』
(しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。)
イエス彼らの思を知りて言ひ給ふ『すべて分れ爭ふ國はほろび、分れ爭ふ町また家はたたず。
(イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。)
サタンもしサタンを逐ひ出さば、自ら分れ爭ふなり。さらばその國いかで立つべき。
(もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。)
我もしベルゼブルによりて惡鬼を逐ひ出さば、汝らの子は誰によりて之を逐ひ出すか。この故に彼らは汝らの審判人となるべし。
(もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。)
されど我もし神の靈によりて惡鬼を逐ひ出さば、神の國は既に汝らに到れるなり。
(しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。)
要約すれば、
イエスが盲聾者(めくら・おし)の体内から悪霊を追い出して目が見え口が聞けるようにした。
その奇跡を見たパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)は、イエスは悪魔の手先であると非難した。
これに対してイエスは、悪魔が悪魔(悪霊)を追い出すなどということがあろうか。内輪での争いは国や家族を滅ぼす、と言った。
というエピソードが新約聖書に書かれています。
上記引用から判然とすることは、キリスト教においては
1)悪魔・悪霊の存在を明確に認めているということ。
2)悪魔・悪霊は人間を手先にして使うことがあること。
3)「神」は「悪魔・悪霊」と敵対する関係であること。
4)「神の国」には「悪魔・悪霊」は存在し得ないこと。
乱暴に敷衍すると、キリスト教にとって悪魔は相容れない敵であり、キリスト教の教義体系には悪魔は含まれておらず、理想の社会では悪魔は存在できない、ということになりそうです。
つまり、キリスト教とは、古来の中東の人々が信じていた悪魔を排除して、あるいは排除しようとして成り立たせた信仰であるということになります。
上記下線部のテーゼからは、多くの仮説が導かれることになります。
たとえばこういうことです。
中東の人々は多神教を信仰していました。(論考は省略)
善なる神も悪なる神も。
その混沌とした信仰から、唯一絶対神だけをすくい上げて産まれた信仰がユダヤ教であり、キリスト教でした。
捨てられた神々、特に悪なる神は、しかし人々の心から容易には消え去りません。
神を捨てた負い目が、ユダヤ教徒やキリスト教徒(おそらくはイスラム教徒も)の心を歪みむしばみ、その結果生まれたものが過激な悪魔信仰であったり、オカルトホラー映画であったりするのでしょう。
逆に言えば、異端が成立したのは正統のせいなのです。
それなのに、正統は異端を非難し攻撃することで正統を守ろうとします。
あ〜スッキリした〜
バリ・ヒンドゥーなど世界各地の多神教世界では、たいていは教義・信仰の中に「善なる神」と「悪なる神」が組み込まれています。
世界は善悪のバランスで成り立っていると考えるわけです。
その均衡が大きく崩れるとその世界は滅びます。
いいですか、
滅びに至るもとは悪魔の排除にあるのです。
排除することでかえって悪魔に取り憑かれてしまっている、ということです。
世界の一神教は、悪魔の復権を真剣に考えるべき時がきたのではないでしょうか。
(と、私も少々教祖様っぽくなってますね)
『オーメン』THE OMEN
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:1976年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。その後ビデオで、2018年BS/CSで再視聴。
監督:リチャード・ドナー
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:グレゴリー・ペック(ロバート・ソーン) リー・レミック(キャサリン・ソーン)
ハーヴェイ・スティーヴンス(ダミアン) デヴィッド・ワーナー(ジェニングス)
ビリー・ホワイトロー(ミセス・ベイロック)
製作国:アメリカ
allcinemaの情報ページはこちら

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより
コメント
製作・公開後すでに42年を超えていまだに生き残るオカルト・ホラーの名作。
作品のストーリー、ユニークな殺し方、製作前後の奇譚など、大小の話題が有り余るほど豊富な本作品ですが、ブログや映画サイトで書かれている方が多く、私の出る幕はありません。
妻は言います。
「ソーントンが妻に相談なく秘密裏に養子をとったことが間違い。西欧男性による、<女性は庇護されるべき者だ>、と言う男尊女卑的発想が生んだ悲劇。」
「男は謝れない。だから解決のチャンスはズルズル遠ざかっていく。」
全くその通りです。
そこがじれったくもあり、だからこそ本作のようなオカルトホラー映画が成立するとも言えるわけですが。
つまり、「あ、後ろ見ろよ、なんで気がつけへんねんっ!」と同じで。
なにはともあれ、ホラー映画のスタンダードを作った本作の成功の秘訣を列挙しておきます。
1)グレゴリー・ペックさん、リー・レミックさんというスター性のある実力派俳優をオカルト映画に起用したこと。
2)英国舞台女優ビリー・ホワイトローさんの起用。怖い。
3)殺し方などのアイデアの勝利。(特にダミアンの三輪車:のちにキューブリック監督が『シャイニング』でオマージュしましたね。)
4)ギルバート・テイラーさんによるみごとなカメラワーク。彼が『反撥』を撮影したのは約12年前。『スター・ウォーズ』撮影は本作の翌年です。
5)ジェリー・ゴールドスミスさんによる不安感をあおる音学。彼の手になる映画音楽は枚挙にいとまがありません。真のプロです。
『エクソシスト』と並んで、今後もオカルト・ホラーの基礎的作品として語り継がれていきますように。
なお、妻には持論があります。
キリスト教信仰に起因する西欧のホラーよりも、湿気を帯びた日本の風土から発するような日本のホラーの方が怖い、と。
『エクソシスト』よりも『リング』の貞子の方が怖いということです。
その意見のすべてを一回で考察するのは難しいので、今回はその意見の半分だけを熟考してみました。
成果はまだ中途半端ですが、批評欄で少々書きます。

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより

https://youtu.be/t_29UtmWj6Iより
批評 キリスト教徒はなぜ『オーメン』を製作するのか
私は宗教に関心がありますが、信仰心はありません。でも、
厳密に書くと、
ずっと無宗教で生きてきた私は、なんらかの宗教・宗派教義の本格的な研究をしていませんし、今後もする気はありません。
けれど、共同幻想として人類を支えてきた(歪めてきた)宗教の機能と意義については考え続けています。
新約聖書で見つけたこの部分は、ずっと気になっていました。
「サタンもしサタンを逐ひ出さば、自ら分れ爭ふなり。」
以下はマタイによる福音書12章22〜28節
ここに惡鬼に憑かれたる盲目の唖者を御許に連れ來りたれば、之を醫して、唖者の物言ひ見ゆるやうに爲し給ひぬ。
(そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。)
群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』
(すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。)
然るにパリサイ人ききて言ふ『この人、惡鬼の首ベルゼブルによらでは、惡鬼を逐ひ出すことなし』
(しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。)
イエス彼らの思を知りて言ひ給ふ『すべて分れ爭ふ國はほろび、分れ爭ふ町また家はたたず。
(イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。)
サタンもしサタンを逐ひ出さば、自ら分れ爭ふなり。さらばその國いかで立つべき。
(もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。)
我もしベルゼブルによりて惡鬼を逐ひ出さば、汝らの子は誰によりて之を逐ひ出すか。この故に彼らは汝らの審判人となるべし。
(もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。)
されど我もし神の靈によりて惡鬼を逐ひ出さば、神の國は既に汝らに到れるなり。
(しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。)
要約すれば、
イエスが盲聾者(めくら・おし)の体内から悪霊を追い出して目が見え口が聞けるようにした。
その奇跡を見たパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)は、イエスは悪魔の手先であると非難した。
これに対してイエスは、悪魔が悪魔(悪霊)を追い出すなどということがあろうか。内輪での争いは国や家族を滅ぼす、と言った。
というエピソードが新約聖書に書かれています。
上記引用から判然とすることは、キリスト教においては
1)悪魔・悪霊の存在を明確に認めているということ。
2)悪魔・悪霊は人間を手先にして使うことがあること。
3)「神」は「悪魔・悪霊」と敵対する関係であること。
4)「神の国」には「悪魔・悪霊」は存在し得ないこと。
乱暴に敷衍すると、キリスト教にとって悪魔は相容れない敵であり、キリスト教の教義体系には悪魔は含まれておらず、理想の社会では悪魔は存在できない、ということになりそうです。
つまり、キリスト教とは、古来の中東の人々が信じていた悪魔を排除して、あるいは排除しようとして成り立たせた信仰であるということになります。
上記下線部のテーゼからは、多くの仮説が導かれることになります。
たとえばこういうことです。
中東の人々は多神教を信仰していました。(論考は省略)
善なる神も悪なる神も。
その混沌とした信仰から、唯一絶対神だけをすくい上げて産まれた信仰がユダヤ教であり、キリスト教でした。
捨てられた神々、特に悪なる神は、しかし人々の心から容易には消え去りません。
神を捨てた負い目が、ユダヤ教徒やキリスト教徒(おそらくはイスラム教徒も)の心を歪みむしばみ、その結果生まれたものが過激な悪魔信仰であったり、オカルトホラー映画であったりするのでしょう。
逆に言えば、異端が成立したのは正統のせいなのです。
それなのに、正統は異端を非難し攻撃することで正統を守ろうとします。
あ〜スッキリした〜
バリ・ヒンドゥーなど世界各地の多神教世界では、たいていは教義・信仰の中に「善なる神」と「悪なる神」が組み込まれています。
世界は善悪のバランスで成り立っていると考えるわけです。
その均衡が大きく崩れるとその世界は滅びます。
いいですか、
滅びに至るもとは悪魔の排除にあるのです。
排除することでかえって悪魔に取り憑かれてしまっている、ということです。
世界の一神教は、悪魔の復権を真剣に考えるべき時がきたのではないでしょうか。
(と、私も少々教祖様っぽくなってますね)
Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)
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