2018年11月02日

『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

データ
『フルメタル・ジャケット』
FULL METAL JACKET
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆・
年度:1987年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。ビデオ、DVDで多数回視聴。
監督:スタンリー・キューブリック
原作:グスタフ・ハスフォード
俳優:マシュー・モディーン(ジョーカー) アーリス・ハワード(カウボーイ) 
   ヴィンセント・ドノフリオ(パイル、Gomer Pyle) アダム・ボールドウィン(アニマル・マザー) 
   R・リー・アーメイ(ハートマン軍曹) ドリアン・ヘアウッド(エイトボール) 
   ケヴィン・メイジャー・ハワード(ラフターマン)
製作国:アメリカ
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『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

SUNSET BOULEVARD VIA GETTY IMAGES


コメント

戦争そのもの、戦争とは何かを生一本に描いた大傑作です。
高校で政治経済や倫理の授業の教材として使わせていただいたため、数十回観ていますが飽きません。
たいしたものです。(批評欄にもう少し詳しく書きます。)

それなのに私が本作に☆10を差し上げないただ一つの理由は、キューブリック監督の飛行機嫌いのせいです(笑)
アメリカからイギリスに移住した彼は、撮影場所を頑としてイギリスから動かさず、その結果しおれた輸入ヤシ(だけ)がしょぼしょぼ植えられた「ベトナム」を再現したからです。
ですから映像に東南アジアのあの暑く湿った空気感が皆無。
ほんまにもう、困ったわがまま監督やね。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

これ以降の写真はすべてDVDより


本作に登場するアメリカ軍兵士たちは主に海兵隊員です。
海兵隊 (United States Marine Corps)とは「陸海空軍の全機能を備え、アメリカ軍が参加する主な戦いには最初に、上陸・空挺作戦などの任務で前線に投入され、その自己完結性と高い機動性から脚光を浴びている緊急展開部隊」です(wikipediaより)。
陸海空軍のいずれからも独立しています。
国内戦には投入されず、常に海外で活動するところから、別名を
<殴り込み部隊>と呼ばれます。
日本にも常駐しており、普天間基地がよく知られていますが、上記の性格上、沖縄を守る任務などありません。


第二次大戦後のアメリカは、世界でもっとも他国に兵を送り戦争を実行した国家です。
それらの行為は世界の安寧平和のため、すなわち「世界の警察」を大義名分としていますが、もちろんその原動力は世界一肥大した産軍複合体の要求です。戦争が起こらなければ儲からない軍需産業と、戦争が起こらなければ利権や栄達が実現できない国家・軍とは共通の利害関係があるからです。戦争が彼らの望みを叶えるために起こされています。
本作ではこのような戦争の原因について追求していませんが、ラストシーンで兵士たちがミッキーマウスマーチを歌いながら他国ベトナムを焼き払いその大地を行進していく姿こそ、産軍複合体の象徴と捉えるべきだと思います。
アメリカの戦争にはいつもミッキーが寄り添い、応援していますから。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

民間人と「ベトコン」の区別なく射撃する兵士:彼のセリフは批評3に掲載


批評1:映画の前半と後半のギャップについて

同じ時期に製作された『プラトーン』は1987年度アカデミー作品賞・監督賞を受賞していますので、無冠のこの本作は同じベトナム戦争を題材にした映画として後塵を拝してしまいました。
(私は本作の方をより高く評価します)
キューブリック監督としては忸怩たる思いでしょうけれど、オリバー・ストーン監督の『プラトーン』からは東南アジアのジャングルの熱気がプンプン伝わってきましたよ、監督。

恋愛はもちろん美しい風景などの情緒が何もない戦争映画です。
それどころか、後半には観客を退屈させる時間帯まであります。
そのせいで、本作の前半と後半との落差を嘆くレビューアーには枚挙のいとまもありません。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

「囮生殺し」シーン


もう少しだけ詳しく書きましょう。
時代はベトナム戦争の頃、1960年代〜70年代初頭です。
ベトナム戦争は、冷戦の時代に社会主義国の盟主ソ連に対する防波堤としてインドシナ半島に的を絞った資本主義国アメリカが、ベトナムに兵を送って始まった戦争です。
アメリカはその傀儡(かいらい)政権南ベトナム政府をコントロールし、南ベトナム内の社会主義・民族主義ゲリラ(アメリカはベトコンと呼びました)や北ベトナム(社会主義国)と戦いました。
この戦いは長期化し、次第に劣勢になったアメリカは、これまでより多くの兵士が必要になったわけです。

本作の前半は、その頃米軍海兵隊に志願して入隊した若者が、訓練所で受ける厳しい訓練を描いています。
訓練教官ハートマン軍曹(R・リー・アーメイさん)の下劣極まる悪口雑言と、彼によるいじめを伴う猛訓練、そして仲間によるリンチの結果壊れてしまったパイル(ヴィンセント・ドノフリオさん)の戦慄の行動はよく知られています。
この前半は、緊張感に圧倒されるような凝縮した雰囲気であっという間に過ぎていきます。
(訓練の「意義」については批評2で書きます。)


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

ジョーカー(左)の二律背反


転じて後半はとてもゆるやかに進行します。
訓練所を巣立った新兵たちは戦場の各地に散らばるのですが、主役格のジョーカー(マシュー・モディーンさん)は現地の報道部に配属されたので、まだ戦闘は未体験です。
報道部の日常はのんびりとして危険が少なく、ジョーカーは責任者に口ごたえができる余裕があるほどです。

前半の緊張感に比べ、弛緩したような空気が流れていますが、まさにジョーカーはそういう環境の中で軍務を行っているわけです。
この弛緩も戦争の側面だとキューブリック監督は言うのです。
ジョーカーは、戦場に行かない安堵と同時にいつまでも戦闘を体験できないじれったい焦燥にもかられているというわけです。
この二律背反、矛盾も戦場の側面だとキューブリック監督は言うのです。

つまり、まさしく監督は戦争そのものをストレートに描いていると言えます。
ドラマ仕立てに作っていないところがいかにもキューブリックさんの面目躍如じゃないですか。
そう言う視点から、私は本作の後半も高く評価しているのです。

さらに後半のさらに後半では衝撃的な戦闘が行われます。
ヴェトナム民族解放戦線(ベトコン)側の狙撃兵による囮生殺し戦術はその一つです。
さらに強烈なのはその続きの場面です。前半のパイルの自死と同じくらいの。
ただ、日本人にはその衝撃がうまく伝わらないきらいがありました。
私はその原因の一つを、日本人が歴史や国際社会に無関心になってしまったせいだと考えています。
そしてさらに、欧米人とアジア人の死生観の相違のようなものに影響された結果だと。
しかし本稿では原因について深入りはしません。
なお、この衝撃のシーンの映画的意義については批評3で書きます。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

懲罰=イジメ




批評2:海兵隊の訓練学校の訓練

シリアやソマリアのように、不幸にも身近な場所でいま現に戦闘が行われている地域・国家を除いて議論します。

強制的な徴兵であれ(海兵隊のような)志願兵であれ、兵士になる前は「ふつうの人」でした。
人殺しの経験はもちろんありません。それどころか気の合わない隣人や同級生とも「ふつうの付き合い」をしていた人がほとんどだったはずです。
「ふつうの人」は、盗んだり破壊したり殺したりすることは良くないことだと信じて生きています。
また同時に「ふつうの人」は、気に入らない指示や納得のいかない命令に対して疑問を感じます。勇気があればNO!も言えるでしょう。
(民主主義化が進んだ国ほどそういう傾向があります)

ところが、軍隊の意義、兵士の役割はこれら「ふつうの人」の価値観とは全く異なります。
軍隊は人類史上そもそも殺人と破壊のために存在していましたし、その本質は現代においてもなんらかわりがありません。
マックス・ヴェーバー(ウェーバー)の定義によれば暴力装置ということになります。
抑止力だろうと反論したい方には、殺戮や破壊する能力のない軍隊など抑止力にならないだろう、と申し上げればすみます。

軍隊の意義が暴力にある以上、兵士は暴力をふるえる機能を持たねばなりません。
必要な場合はためらいなく人を殺し、敵の施設を破壊しなければなりません。
しかし下級兵士個々は判断力を期待されていませんし、そういう訓練を受けていません。
ですから、兵士は必ず上官の命令に反射的に応えなければなりません。

つまり、「ふつうの人」がふつうのままでいては兵士になれないのです。
ここに、本作のような新兵の訓練所における訓練の必要が生まれるわけです。
1)これまでの価値観・常識を捨てる。(人格の地軸を逆転させる。)
2)命令には絶対服従する、(その習慣を体に叩き込ませる。)
その両方の要素を備えた人間に生まれ変わらなければならないわけです。

ハートマン軍曹による悪罵を含んだ非人間的訓練の目的はここにあります。
したがって、程度の違いや方法の違いはあったにせよ、全ての現代国家の軍隊(自衛隊を含む)の訓練は同じように行われていますし、そうでなくてはならないという論理的帰結になります。
キューブリック監督はその真理を映像化しているのです。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

生徒間のリンチ:タオルに包んだ石鹸による殴打は傷が残りにくく、大日本帝国軍でも横行しました


批評3:ただの兵士となったジョーカー

さて、主役を張るジョーカーは、ここまではやや狂言回し的な役割。
しかし終盤に、戦争そのものを体現する存在になります。

上述のように、ジョーカーは矛盾した青年。ハートマン教官に褒められるほどガッツはあるのですが、知性が邪魔をしているのかどこか中途半端。
ヘルメットには殺し屋と書きながら、胸にはピースマークのピンバッジ。

輸送ヘリの射撃手(ティム・コルセリさん)が「(女子供を殺すのは)簡単さ、動きがのろいからな」、「ホント、戦争は地獄だぜ!」、「逃げる奴は皆ベトコンだ、逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ」などと笑いながら民間人を射撃することにも納得していないはず。

スナイパーと直接対面した時も、戦闘経験のなさが露呈して銃が起動しない失策。
相棒のカメラマン兵ラフターマンに命を救われる始末です。

しかし床に倒れ瀕死のベトナム人スナイパーが「shoot me」(私を射って)と懇願するのに負けて射殺することで、それまで中途半端だったジョーカーがいっぱしの悪虐非道の兵士に変身します。
これぞ海兵隊魂。
殺すために生まれた男。

ラストで皆と一緒に満足そうに「ミッキーマウス・マーチ」を歌いながら行進することでそのことは表現されるのです。

ここで詳しく書くことは煩雑なのでしませんが、まったく馬鹿馬鹿しい人類の矛盾ですが、戦争にも国際ルールがあるのです。
(誤解しないでください。私は戦争それ自体が最大のルール違反だと考えています。)
例えば民間人を殺害してはならない、無抵抗な捕虜は保護されねばならないのです。
上記のヘリの射撃手はこのルールを破った殺人鬼ですし、ジョーカーもルール違反の殺人者なのです。

大日本帝国による重慶の無差別爆撃、南京虐殺、バターン死の行進などはもちろんルール違反。
同様にアメリカによる東京大空襲や原爆投下もルール違反です。
ただし勝者は普通裁く側にまわりますから、アメリカの罪は不問に付されました。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

スナイパーは壁の穴から敵を狙撃する:ここでジョーカーの旧友カウボーイが戦死

終盤最大の衝撃シーンは、ジョーカーの変身の直前。
凄腕の狙撃でジョーカーたちを足止めし、囮生殺しで全滅させようとした狙撃手はたった一人だったこと。
しかもそれがおさげの少女だったこと。
(ジョーカーはその少女を殺害したのです。)

ジョーカーたち海兵隊員は、あの過酷な訓練を受けてようやく戦場に出ました。
しかしこの少女はヴェトナム民族解放戦線の一員。
もちろん射撃訓練はしたでしょうが、アメリカ海兵隊のような組織的な学校があるはずがないゲリラです。

彼女たちは「ふつうの人」ではないのです。
なぜなら、彼女たちの住む大地は、外国(フランス→日本→フランス→アメリカ)に蹂躙され続けていたからです。
極端に言えば、生まれながらに銃を持っていた人々なのです。
しかも、侵略国家を憎んで戦う意志も生まれながらに持っていたはず。
戦争の意義がよくわからないままベトナムにやってきた海兵隊員とはまるで次元の違う戦いを戦っているのです。
誠に不幸。
そして、かなうはずがありません。

このシーンで、大国が小国を侵略する戦争というものに、一瞬にして目を向けさせるのです。

キューブリック監督、さすがです。
彼を舐めるわけにはいきません。


『フルメタル・ジャケット』:戦争とは何か

スナイパーはたった一人の少女だった





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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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