2018年11月20日

『エイリアン』:リプリーの敵はエイリアンとロボットだ

データ
『エイリアン』

評価:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年度:1979年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。その後スクリーンやDVDで多数視聴。
監督:リドリー・スコット
デザイン:H・R・ギーガー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:シガーニー・ウィーヴァー(リプリー二等航海士) トム・スケリット(ダラス船長) 
   ジョン・ハート(ケイン一等航海士、副長) ヴェロニカ・カートライト(ランバート二等航海士) 
   ハリー・ディーン・スタントン(ブレット機関士) ヤフェット・コットー(パーカー機関長) 
   イアン・ホルム(アッシュ科学主任)
製作国:アメリカ
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『エイリアン』:リプリーの敵はエイリアンとロボットだ

写真はすべてDVDより


コメント

映画が終わり、エンドクレジットが終わり、映画館のあかりがつき、他の客があらかたいなくなっても、腰が抜けたようにあるいは尻が座席に接着されたように立ち上がれなかった映画は、後にも先にもこの作品だけでした。
それほど衝撃的な出会いでした。
ほとんどアタマを使う必要がなく、社会性も帯びていない娯楽作品なのですが。

スリリングなホラー性の質の高さは言うに及ばず。
女性のリプリーがSFホラーの主役であることが斬新。
ギーガーさんのデザインも新しさとおどろおどしさで革命的。
音楽も編集もうまくいきました。
ですから一瞬たりとも目を離すことができませんでした。


この世界には本作の熱狂的ファンは数知れず存在し、インターネット上にマニアックな情報があふれています。
マニアではない私がここで付け加えることはなさそうですし、まとまった論評、詳細な解説は不要かと思います。
そこで批評欄では、わたしにとって特に重要なインパクトを与えてくれたシーンのいくつかについて断片的に言及したいと思います。


『エイリアン』:リプリーの敵はエイリアンとロボットだ



批評

●鉱石運搬用宇宙船の名はノストロモ号。所有する企業は日系企業のユタニ社。
 『ダイ・ハード』(1988)のビルも日本企業のものだったので、この間の10年くらいは日本経済の世界進出が目覚しかったのだなあと感慨を。
 本筋とは無関係ですが、「湯谷」という日本人の姓は全国順位4971位というかなり少数派の姓だそうです。(名字由来net)

●「冬眠」から目覚めたクルー達は、コンピュータ(マザー)が地球ではなく別の太陽系の惑星に向けて進路変更したことを知る。ユタニ社はクルーとの契約条項に「知的存在と接触できるチャンスを逃さない」との文言を入れている。もちろんユタニ社にとってこの進路変更と接触は当初からの企てだったわけで、そのためクルーの中にロボットを紛れ込ましている。ユタニ社があの生き物の存在を把握していたのなら、それは人類に対する犯罪ですわな。

●クルーの中で格差があることがわかる。ブレット機関士とパーカー機関長はボーナスの格差を嘆き、値上げを陳情するが船長達にすげなく却下される。「現場は無視かよ」的な愚痴を言い合う。キャリアとブルーカラーの格差がリアルだ。
ちなみに、ブレットを演じたハリー・ディーン・スタントンさんとは本作以前に『西部開拓史』『さらば愛しき女よ』で出会っているはずでしたが印象に残っていませんでした。しかし本作で私の目が惹かれてファンになったため、5年後の『パリ、テキサス』での主演は他人事に感じられない喜びでした。

●ケイン副長をはじめ、喫煙者が何人もいる。1979年の時点で今日のような禁煙ブームが世界的に巻き起こるとは想定されていなかったことがわかる。
喫煙者の私から見て、なるほどここで吸いたくなるだろうなと思うタイミングで吸っています。仕方がないことですが、人類の文化がまた一つ消滅の危機に瀕していると実感します。

●全編を通じてノストロモ号の機関や内装には汚れや経年劣化が顕著。このあたりのリアル感が、物語全体を荒唐無稽に思わせない一種の伏線になっていると考える。

●人間に危害を加えるロボットが同乗している。これ以降の続編でもロボットは重要なファクターとして登場する。妻はエイリアンシリーズを「リプリーの物語」と呼ぶのですが、それはまさしくその通りですが、最新の二作を観るとまるで「ロボットの物語」かと思わせます。
私など、SF作家アイザック・アシモフさんが提示したロボット工学三原則(「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」)を能天気に信じていたクチなので、40年ほど前に本作を観た時には極めて意表を突かれました。
本作中でのシーンとしては、アッシュが突然その場駆け足のような運動をした時に背筋がゾワっとしたことを記憶しています。


●巨人宇宙人の造形が素晴らしい。圧倒的な驚き。

●完全生物(エイリアン)という設定もまた素晴らしい。造形は言うには及ばず。体液が強酸ならば確かに打つ手はほとんどないに等しい。

●その完全生物に対抗するリプリーは、途中からは完全に生存者のリーダーとなるところが好印象。従来のサスペンスフルなアクション映画では、女性がリーダーになることは(ほとんど)なかったから。その意味で本作が後代の映画に与えた影響は計り知れない。

●そのリプリーですら、火炎放射器で牽制することくらいしか対抗手段がない。武器がない状態での脱出をどうするのか、興味津々だった。

●リプリーは船を爆破するしか方法がないと考えたが、それが無理だとわかり、爆破をキャンセルしに戻るが、タッチの差でキャンセルできなかった場面からラストまでは、(そんなわけはないけれど)自分が息継ぎも忘れていたような気がする。


●出典も定かでなく、文言も記憶していないが、確か内田樹さんが本作を評して性的メタファー(暗喩)に満ちていると書かれていたように思う。私も初見の時にそのように感じた。
具体例はマニアの方にお任せ。ただ一つだけ。ケイン副長(ジョン・ハートさん)がとても中性的でセクシーに描かれているとは思いませんか。彼に幼生エイリアンが張り付いた姿には「凌辱」という言葉が閃いてしまった1979年の私でした。


この程度の文で私の絶賛をお伝えすることはとてもできません。
が、挙げていくときりがありませんので、さしあたってはこれくらいにしときます(笑)



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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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