2018年07月02日

『闇の子供たち』

データ
『闇の子供たち』

評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:2008年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:阪本順治
原作:梁石日
主題歌:桑田佳祐
俳優:江口洋介(南部浩行) 宮崎あおい(音羽恵子) 妻夫木聡(与田博明) 
   プラパドン・スワンバーン(チット) プライマー・ラッチャタ(ナパポーン) 豊原功補(清水哲夫) 
   鈴木砂羽(梶川みね子) 佐藤浩市(梶川克仁) 塩見三省(土方正巳)  外波山文明(大山)
製作国:日本
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『闇の子供たち』

写真はすべてパンフレットより


コメント

よくもまあこのような問題作を撮影し公開できたな、と思います。
その意味でも必見の作品なのでは。

どなたも同じだと思いますが、衝撃的な出来事に遭遇したとき、私は心のアンテナが自動的に格納されて、感受の感度が下がります。
ショックやダメージを軽くしようとするのでしょう。
一時的に、まるで湯気で曇った眼鏡ごしに現実を見ているようになります。
3.11や9.11のあの時はそうなりました。
でもフィクションの映像作品を鑑賞した時に起こるのは珍しい。

一旦格納したアンテナを再び張るのには勇気が必要です。
私は「書く」ことでこの映像作品を正面から受け止め、自分のものにしたいと願います。


とは言え、東南アジアにおける幼児虐待やペドファイル、子売りの実態について満足のいく学びができておりません。
ですから、実際に鑑賞されていない方に作品をわかりやすく紹介することはできません。
もちろん、作品には寄り添っているつもりです。


なお蛇足かもしれませんが、
桑田佳祐さんの歌唱になる主題歌は、この作品の深刻なテーマにそぐいません。
私は桑田さんの歌が好きですが、彼の歌が表現する世界は人間や社会の深奥をえぐるような性質のものではありません。
ミスキャストです、残念ですが。


『闇の子供たち』




批評

1)主題設定

この作品中には、多くの要素がちりばめられています。

具体的な社会問題としては、「ペドファイル(幼児性愛者)」と「臓器移植」が二本の柱になっています。

それらの問題の背景や原因として、「貧困」と「子売り」、「子捨て」、「子供を買う欧米人」、そして「アジアの現実から目を背ける日本人」が描かれます。

またこれらの結果としての、「子供のHIV感染」「子供の虐待」「生きながらの臓器摘出」「ゴミとして捨てられる子供」などなどのファクトが点描されます。

それらの要素が万華鏡を通して見るように作品の中で複合しています。
いや、万華鏡のように美しくはありません。
過酷で残酷で非道です。

これが現実なんだよ、現実はこのような複合体(complex)なんだよ。
知っていたかね?
腑に落ちたかね?
君だって無関係ではないだろう?
と映像が迫って来ます。
キツイ映画です。

そのうえさらに、
ではなぜこんなことが起こるのかね?
どう解決するかい?
と私たちに課題をつきつけるのです。

つまり
この非道な現実に、あなたならどう立ち向かうのか?
という問いかけが基調音のように、鑑賞中に鳴り続けるのです。
映画を見てしまった以上、この問いかけに答える責任が生じます。
以下、段階を踏んでその責任に応える試みをしたいと思います。



2)この非道な現実に、あなたならどう立ち向かうのか?

まずこの基調音的な問いかけに言及します。

この問いかけを一般化すると、
いまあなたの目前に命の危機に直面している子供がいます。
あなたはその危険に気づいてしまいました。
その時あなたはどういうアクションをとりますか

という設問になります。

警察に通報して助けを求める、という「先進国」ならあたりまえの行動がここタイのこの問題に関しては有効ではありません。
いえ警察力が有効ではないという設定は、ハリウッド映画においても定番でしたね。
そこでハリウッドの主人公なら、無力を装いながら、実は常人にはとても不可能な能力や勇気を発揮して自力で解決していくことになります。
しかしこの映画に登場する人物たちはメル・ギブソンでもハリソン・フォードでもありません。

本作では、
若者Aは自分の命の危険を冒して現実を切り開き、目の前の一人の子供を救いました。
若者Bは、自分が見たままを報道することで、社会構造自体を変え、今後の多くの子供を救うのだと言い訳しながら、別の一人の子供を見殺しにしました。『顔をしっかり見た』。それしかできることはない、と。

若者Aは宮崎あおいさん(音羽恵子)、Bは妻夫木聡さん。(与田博明)

BはAの手を取り「危険なことはやめて、一緒に日本に帰ろう」と言ったのですが、Aは「自分に言い訳したくない」とBの手をふりほどき、袂を分かちました。
この古くからの命題にぶち当たった時、あなたならどちらの道を選びますか。


私はこう思うのです、どちらも間違っていないと。
いえ、あたりさわりのない意見でお茶を濁しているつもりはありません。
ここで問題になるのは人数なのです。
例えば、タイにおける幼児売買に反対して現地で行動を起こしている人が100人いるとします。
とするなら、
情報収集や救出の実行グループに50人。後方で保護を担当するメンバーに30人。報道や渉外に当たる人員が20人、とわりふることができるでしょう。
一方、もしも活動者が1人なら、、、
と考えていくと、
世界の庶民に降りかかる苦難を解決できるのは、やはり数の力なのです。
理解者・支援者の数も大切ですが、何より実働メンバーの数が重要です。

人間の尊厳を守られずに死んでいく子どもがいなくなることがあなたや私の目標ですが、そのためには、
人権や正義に燃えて動き、落ち着いたら自分の生業や労働に戻るフレキシブルな世の中であることが極めて大切です。
社畜とならざるを得ない(と思い込まされている)日本の若者たちに世界を救う力はあるのか、と暗い気持ちになります。


『闇の子供たち』




3)「ペドファイル(幼児性愛者)」の原因

子どもを対象とした性的嗜好をペドフィリア(pedophilia)と言います。
ペドフィリアの性向を持つ人を、ペドファイルまたはペドフィル(paedophile)と言います。
ペドフィリアの実行は正常な性的嗜好ではない、
というテーゼを仮に前提にした上で、その原因を考えたいと思います。※①


私は、ペドファイルは単純な道筋をたどって生まれると考えています。

セックスを肯定していない男女のペアがいる
(宗教的に、あるいは愛情的に)

生まれた子を心から愛せない
(背徳的だから、あるいは望まない妊娠だったから)

その子は成長しても自分に自信や確信が持てず、アイデンティティーが確立できない
(全受容された体験がない)

長じても性欲はあるが、正面から異性を求めることができない
(自信がない、傷つくのが怖い、異性の人格を理解できない)

安全で支配できる性的ターゲットを求める
(自分の自信の無さや経験不足、他人への洞察力不足が露見しないですむ)

相対的に弱い存在であるはずの幼児・児童性愛に向かう
(性は支配だと勘違いしているから)



セックスを肯定していない男女ペアが成立する原因については若干の迷いが残っています。
愛情が冷えている場合も想定できますが、むしろ、キリスト教などの宗教に潜在的に隠れている<セックスは罪>意識が主な原因ではないかと今のところ考えています。
つまり、ペドファイルは欧米人(キリスト教徒)に特に見いだされる傾向があったと、考えています。

ただ、日本も今や傍観者ではいられません。
最近は異性に対する自信や洞察力が低下している男女が増えている印象があるからです。
ベドファイルの急増をうかがわせる諸事件も報道されています。
それならば、原因を宗教性にだけ限定するのは誤りかもしれないと思っています。
要するに子どもが自分を肯定することができない状況が、ペドファイルの最大の原因なのでしょう。
今後もっと考えていきます。



4)ペドファイルの「矯正」は可能か

かつて近畿圏や首都圏でのペドファイルらしき人物の犯罪をきっかけに、性犯罪者は隔離すべきだとか、GPSをとりつけておくべきだという議論がおこりました。
上記の青字のペドファイル誕生の道筋が正しいなら、机上の論理では、愛される・全受容される体験からやりなおすことで「矯正」は可能だと考えています。
自分を理解でき、他人の心を洞察でき、自他の尊厳を認められる人間に育ってもらえば良いのです。
私は年来、受刑施設内に教育施設が設けられるべきだと主張しています。
これは「しつけ」や「洗脳」のための施設ではなく、真に生きる自信を取り戻すための教育機関であるべきです。


一方、上記のような能天気に見える解決策だけでなんとかなると考えているわけではありません。
この点に言及すると、絶望的な気分に陥ってしまいそうですが、それでも触れてみます。

この映画では、あえてペドファイルたちを醜く描いています。
子供たちの目は虐待されていてもなお強く光り、観客の同情を乞いません。
これは、この映画自体がペドファイルの慰みものにならないための配慮だと(パンフレットは)言います。

ただ、醜さの表現は、見た目だけのことではありません。
その生き方と存在が醜悪なのです。

本作中に、ペドファイルたちが子供の性や命をクレジットカードで支払う場面があります。
その時私の脳のどこかがショートして焦げ、発煙しました。
VISAやAMEXはペドフィリアの歯止めにはならないのです。


ペドファイルたちは性愛の世界に現実感が持てないまま生きているのですが、
彼らの棲む現実社会の醜さを性愛の世界に持ち込んできます。
被害者よりも相対的にたいへんに豊かな財布を持っている彼らは、カネで性愛や児童の命までも買うことができるのです。

彼らが己の仮想の現実感を追求するターゲットは目の前のこの子どもたちなのですが、
彼らの現実はカネと保身。
差別する心にまみれて醜く腐臭を放っています。
それはこの映画から十分に読み取ることができます。

この側面は、世界中の売買春と同じ構造を持っていて、
受刑施設の檻の中で教育することでは解決できるはずがありません。
彼ら地位や財産を持つものが刑に服する機会はまずないでしょうから。



『闇の子供たち』




5)『貧困』と『子売り』

私は、この映画が表す貧困に起因する子売りという状況は、タイなど東南アジアの特殊なケースとは見ていません。
日本列島でも、歴史的に眺めれば、つい最近まで子売り・人身売買は続いていました。
(現代日本でも、親の借金を返済するために風俗に身を投じる娘はいます。)

親が子を売る目的は、口減らしと共に現金収入を得ることです。
過去の日本でも、子を売ることで田畑を手放さずに済んだ、つまり家族全体が食いつないでいけた農家の数は半端ではなかったはずです。
あなたやわたしの十世代前の先祖は、そうやって売られた子だったかもしれませんし、売る立場だったかもしれません。
記憶が遺伝するのなら、私たちのDNAには「おとっつあん、おらを売らないで、捨てないで」という恐怖が消えず残っているかもしれないということです。
(ならば、我が子はいっそう愛してやらねばなりませんね。)


16世紀に日本に長く滞在した宣教師ルイス・フロイスは、その日記の中で「日本の親は、子供が神隠しにあっても驚かない。」と書いています。

どの国においても、「不要な」子を「必要」な人物に売り渡す習慣がありました。
そのためには仲介者(ブローカー)の存在が欠かせません。
そしてそのブローカーは、さらに上位の「闇の商人」に雇われていたのかもしれません。
貧村をまわって「不要な」子をさがすブローカー本人がもとは捨てられた子供、であった可能性も高いと思われます。

彼ら闇の商人やブローカーは、カネと暴力の匂いを漂わしていたはずです。
少なくとも子供が逃げない程度には。
さらに手強い敵を相手にするために武装を強めた可能性もありますが、その敵は(賄賂が効く)公権力ではないでしょうし、そもそも「子売りは親の権利であって犯罪ではない」時代も長かったはずですから、さほどの暴力装置は必要なかったのかもしれません。
しかしとにかく暴力は介在していました。


日本だけではなく、人身売買はかつて世界的に普通なことでした。
アフリカ黒人奴隷の例を思い出す人は多いでしょう。
この例はアフリカにおいては誘拐・拉致であって、親にカネが渡る子売りではありませんでしたが、欧米に渡った彼らはカネで買われていきました。
奴隷制度を有した地域で人身売買はもともと当たり前の商行為であったということです。
古代ギリシア人の抱える奴隷の多くは異民族の子売りの結果であったとも聞きます。
ブローカーが登場しない、子売りの直接取引の例として、F・フェリーニ監督の名作『道』を挙げることもできます。
この作品はフィクションですが、20世紀!のイタリアの物語です。

・・・などと想起していくと、欧米や西アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸における子売りの歴史について、まだまったく勉強していない自分に気がつきました。
そこでも必ずあったはずですから、知りたいと思います。

今の私が少しだけ知っているのは、やはりアジア地域の子売りです。
ここでは具体的に触れませんが、この映画の舞台となったタイ、そしてフィリッピン、インドなどでは、現行の子売りの実態を暴き摘発しようとしているNGOや政府機関は多いのです。(実はタイでは政府機関の活動も活発で刑罰も重いのです。)
闇の商人たちにとって、NGOは飛んでくるアブよりうざい存在になりつつあるとも聞きます。


『闇の子供たち』




6)まとめ

さて、親による子売りの目的を再度挙げておきます。それは口減らしと現金収入です。
子を売った親が一定の現金収入を得て、さらにブローカーや闇の商人など人身売買の「商行為」にたずさわるものたちが多くの利益を得るために必要な条件は二つあります。

一つ目は、これらすべての利益分を支払えるだけの財力のある高額所得者の存在です。
子を売るのは「途上国民」ですから、簡単に大枚をはたける「先進国民」が主な顧客ということになります。
これがグローバル化の一側面ということです。

彼ら(相対的)高額所得者はなぜその金を支払うのでしょう。
それはたとえば「幼児性愛」の対象としてです。
あるいは「生きた臓器提供者」としてです。
後者の場合は一回きりの「利用」になりますし、医者などの介在も必要ですから、その利用料はきわめて高額になります。
そして「利用」された子どもは必ず死にます。

あなたは、自分の子供の命を救うために、顔も知らないアジアの子供の命を犠牲にできますか?
本作品では「先進国日本」のわたしたちにこの問いかけもまた突きつけられるのです。


二つ目は、千年前から人類にはおなじみのもので、しかもどうやっても人間の支配下におくことができない怪物の存在です。
つまりそれはカネ。money.

特にグローバル化が進む今日の地球では、その怪物は全人類が信仰する「拝金教」のご神体にまで昇格しました。
金があれば勝ち組で、無ければ負け組などと、世界中の人々が同じように感じる時代になってしまったのです。

そのことはつまり、
自分が金のある勝ち組なら、
石油価格をつりあげて貧しい人を凍死させてもかまわないし、
自分が住むわけでなければ美しい土地に醜い人造建築リゾートを建ててもかまわないし、
他国にウラン劣化弾をうちこんでもかまわないし、
他人の子の心臓を我が子のためにむしりとってもかまわないという時代をもたらしたのです。
ただその他人の子は必ず自分より貧しい国の貧しい家庭の子どもに限ります。

自分の利益だけがその人の現実なのです。
その国の一握りの人物がその国を支配するのではなく、
世界の一握りの人物が世界中を支配できる時代になる、それがグローバル化の正体なのです。
まるでチャンスは全人類に等しくあるかのような幻想と共にグローバル化は進んでいます。


この作品の中で、何度カネのやり取りが行われたでしょう。
阪本監督はバーツのやり取りを遠慮会釈なく映像であばきだします。
わずかなバーツを手にした犯罪の加担者たちは、実はもっと大きなカネの夢を見ているはずです。
なれるはずのない一握りの人間を夢見ているのでしょう。



タイのチェンライ近郊の故郷の村で無邪気に水遊びをしていた姉妹は二人とも死んでしまったのですが、
子を売ったまた別の父親は、相変わらずバンコクのスラムに住みながら、
水浴びのあと、大きく真新しいバスタオルで自分の身体をふきました。




※①正直なところ、ペドフィリア自体が「悪」であるかどうか、私には判断がつきません。また、以下の青字部分の道筋も自信が持てません。まして条件が揃った子供がすべてペドファイルになるなどとはあり得ません。先に書きましたが、この映画を観たら原因や対策を考えざるを得ないのです。まだまだ未熟な思考なことは自覚しております。悪しからず。



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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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