2018年04月26日

『おくりびと』

データ
『おくりびと』
評価:☆☆☆☆☆☆☆・・・
年度:2008年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
音楽:久石譲
俳優:本木雅弘(小林大悟)  広末涼子(小林美香)  山崎努  余貴美子  吉行和子 
   笹野高史  杉本哲太  峰岸徹  山田辰夫
製作:日本
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『おくりびと』




コメント

ほぼ完璧な作品でした。
無口で静謐な映画が好きな方には
ぜひ、とお勧めします。

「石文」のエピソードだけは、
私にはわざとらしくとってつけたように感じてしまい、それだけが残念でした。



批評
「うまいからしょうがない」

本木雅弘さんの演技/役柄(大悟)がこの映画のベースになっている。
この作品の<大地>と言っても良い。
大悟の<おくりびとぶり>の美しい所作が、この作品の大地。
エンディングクレジットを見て、それがはっきりとわかる。
大悟は終始控えめで、過剰や激情からは無縁。
大悟は素直。チェロ奏者からの転身もすなお。
彼というおだやかで肥沃な大地の上に、
個性のある大小のきのこがにょきにょきと生えている。
それがこの映画の構造だ。


広末涼子さん演じる妻美香。
都会のウェブデザイナーで、アーチストの妻でありながら、
いや、だからこそ、
おくりびとのしごとを「汚らしい」と吐き捨てる。
しかし、夫の仕事ぶりを我が目で見て、
ようやく夫を受け入れる。
なぜなら美香は、夫大悟の美しさが好きなのだから。
おくりびともアートだとわかったから。
そして美香は、
静かな夫が唯一抱える心の痛手を持て余して崩れそうなとき、
叱咤して方位を示し、そして癒すのだ。
一見現実感がなさそうに見えて、実はあなたの隣りにもいそうな「母」だ。


笹野高史さん演じる将棋好きのおやじ。
銭湯の女将=吉行和子さんに恋をしているが、
彼が銭湯を好きな理由はそれだけでなく、
もう一つの理由があることをわかる気がするのは彼の職業を知ってからだ。
地味な彼が、あるシーンでは映画全体を支配する。
彼の言う「あの世」は、私ごとき人間の口にする「あの世」とは
リアリティが違うのだ。


山田辰夫さんが扮する、ある遺族。
妻を亡くした夫。
いるよな、あるよな、わかるよな、という
迫真の演技に揺さぶられた。


余貴美子さんが演じる事務員。
彼女は、出演するどの映像作品にも言える事だが、
いつも地味な装いをして、作品世界に順応しながら、
なおかつ、この人にはきっと深くて長い人生のあれこれがあったに違いないと、
観客が人間の厚みを感じる役者だ。
この作品の事務員も、はまり役としか言いようがない。
彼女のおかげで、NKエージェントは実在するのだ。


以上、大悟という美しい大地の上に、
にょきにょきと生えたきのこの一部を紹介した。
そうやってこの作品は成り立ち、
そうやってバランスと現実感を保ち、
それゆえに完璧だ。少し整いすぎているくらい。


『おくりびと』




が、肝心な人物がまだ登場していない。

社長=山崎努さんという異様なきのこだ。
この映画が、「できすぎた作品のつまらなさ」から免れて、
「金を払って映画館見に来てよかったな」と思えるのは、
山崎努さん演じる社長の、そこいらのリアリティなど通り越した存在そのもののリアルな不安のおかげだ。

大悟が社長に感じるその不安は、
観客にダイレクトに伝わってくる。
「なにものだ、この人?」
「ついていって大丈夫なのか?」

しかし大悟は次第に社長に惹かれていく。
社長という人間の底が深いからだ。
社長の仕事が美しいからだ。
万事大切に、抱くように表現する事が得意であった本木は、
ここで自分を生かし、生きていける場所と出会ったのだ。

社長は、職業の喪失、自信の喪失を抱えた男が出会う、人生の転機そのものの象徴だ。

自分の部屋に大悟を迎えた社長は、
炭火で炙った白子をほおばる。
何万もの命がつまったその白子を
「うまいからしょうがない」とほおばる。
大悟も食べる。


リアルな命を奪って味覚という官能で味わう事をおぼえた、いや自覚した大悟は、
命を知ったことになる。
そうして、
命を失った遺体にも誠実に、おそれず、相対する事ができるようになるのだ。


『おくりびと』

 写真はすべて「おくりびと」パンフレットより拝借


補足です。
映画サイトのレビューを少し読みました。
そこでは広末涼子さんの演技に違和感を感じる方が多かったようです。
私はその違和感の原因となる、私たちの常識そのものが問われているのだと感じています。

死が怖いもの、忌むべきもの、穢れである、という反応は、
わたしたち日本文化に染まって暮らす人々にはあって当たり前です。

広末涼子さん扮する小林美香はそれを体現しているので、
主人公目線になってしまった観客に違和感を生じさせる存在なのです。
監督は尋ねているのです、美香と同じように感じるのと違うのかい?と。

あって当たり前、と私は書きましたが、
その源泉、歴史的推移を考えたいのです。
わかりやすく言えば、縄文人も死を穢れと感じていたのか、ということをです。
その後に生まれた記紀神話的世界観や渡来仏教の死生観の影響はどの程度あったのか、ということをです。
しかし今のところ手に負えないテーマですので、
いつか考えがまとまり、機会があれば、書いて行きたいと思います。







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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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