2018年04月05日

『羊の木』

データ
『羊の木』
評価:☆☆☆☆・・・・・・
年度:2018年
鑑賞:封切り時スクリーンにて
監督:吉田大八
脚本:香川まさひと
俳優:錦戸亮 松田龍平 北村一輝 優香 市川実日子 安藤玉恵 
   木村文乃 田中泯 水澤紳吾 松尾諭
製作:日本
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『羊の木』

映画パンフレットより。(白黒加工)


コメント

え?まさか?結末はそうなるの?そんなことないよね、吉田監督!
〜あ〜〜本当にこれで終わってもうた・・・

あまりに口惜しいので、以下の批評欄は愚痴混じりのダラダラ評になります。
この映画が気に入った方は拙文をこれ以上読まないで下さい。



批評

残念、失敗作です。

とびきりのナマな空気感を運んでくれた安藤玉恵さん、水澤紳吾さんは秀逸でしたし、
錦戸亮さんの誠実な地方役人ぶりは、はまり役でしたし、
松田龍平さんの不穏な側面は適材適所、
北村一輝さんや優香さん、田中泯さんは生き生きしていましたし、
市川実日子さんなら羊の木も育つかもしれません。
他の演者さんたちも一人として違和感を感じさせません。

このように、個別シーンを切り取れば役者陣はしっかり演じているのに、
映像面でもカメラ位置と距離が的確でいかにも映画的なのに、
(カメラアングルから、同じ吉田監督の手になる『桐島、部活やめるってよ』を思い出したのは私だけではありますまい。)
観客の私は最初から最後までチグハグ感が拭えないままでした。
ひょっとしてそのチグハグ感は、役者陣も感じていたのでは?
と思えるほど、求心力が感じられなかったのです。
どんな映画を作るのか、の。

原作は漫画。未読。
山上たつひこ原作、いがらしみきお作画、と聞けばさぞ香ばしい作品ではないかとそそられます。
原作を勝手に推測をすれば、
1)見たくもない・見ずに済ませたい人間の心の深奥の醜さ、または社会の不公正さを垣間見てしまう作品ではないですか?
2)その上で、漫画ですから思いっきり戯画的に作られていませんか?本当に起こってしまうことなどありえないような。

優れた漫画の場合、この1)リアル感と2)荒唐無稽さは両立できます。
優れた映画の場合も同様です。
ところがこの作品ではチグハグに出来上がってしまいました。

設定が甘すぎたのでしょうか?
脚本家と監督との齟齬でしょうか?
または編集上カットされた映像に重要な部分があったためでしょうか?
だから作品に説得力がなくなり、作品世界に没頭できなかったのでしょうか?


チグハグ感の具体例を挙げます。

この作品は、某市が6人の服役中の殺人犯を市民には内緒で受け入れる、という設定で製作されています。(目的の中に過疎化対策という説明もあったように記憶しますが、それなら市街地に住まわせるのは矛盾してますね。)
その6人はおそらく模範囚で、刑期をうんと短くして出所(社会復帰)させる代わりに、10年間はこの市で暮らす事が条件なのだそうです。
その説明を聞いて私がとっさに考えたのは、憲法違反じゃないの?という疑問でした。
日本国憲法第22条第1項
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

市民と憲法に仕える市役所職員である月末(つきすえ、錦戸亮)と、彼に担当を命じた上司が、そのことを想起しなかったはずがありませんが、無視しています。
またその月末は一介の地方公務員。さほど権限がなさそうな彼に「極秘の国家プロジェクトの成否」を託すなど無茶すぎます。

市の斡旋によって、殺人犯とは知らされずに移住者を雇用した経営者の中で、理髪店主とクリーニング店主だけは雇用者の前歴に薄々気がつきます。
この二つの職場にはそれぞれ名場面がありました。
田中泯さんと安藤玉恵さん。水澤紳吾さんと中村有志さん。それぞれの組み合わせのリアル感は特筆されていいでしょう。戯画的ではないのです。
しかしこの行政施策から蚊帳の外に置かれていた一般市民たちの誰も、受け入れから日数が経った後になってこの受け入れを察知しなかったとは考えられません。市民と殺人犯との軋轢描写はリアル感を醸すには必須ではないでしょうか。が、その描写はありません。
この辺りは主に妻の意見です。

釣り船屋で働く殺人犯杉山勝志(北村一輝)は、殺人犯宮越に悪事への加担を持ちかけます。いかにも更生してなさそうな北村さんの表情は秀逸でしたが、そんないかにもと感じる杉山を模範囚として早々に出所させるこの「極秘国家プロジェクト」はテキトーだなあ、と思いました。荒唐無稽です。

殺人犯太田理江子(優香)の突拍子もないファザコン色情狂ぶりは、リアルな職場にはありえないでしょう。とても戯画的です。優香さんは、何かの賞を差し上げたいくらいの熱演でしたが。

その他、そんなんあり?なツッコミどころはたくさんありますが、キワめつけはのろろ様の存在。
お断りしておきますが、のろろ様なる神は、その存在・造形ともに私の大好きな世界です。
のろろ様は市民の守り神であり、畏怖の対象です。
のろろ様を海に戻す(?)のろろ祭りの呪術的な様子は荒唐無稽ではなくリアルです。
(ただ今日の日本ではこれほどの信仰心はどこにもないように思われます。あるとすればもっと「辺境」でしょうが、この町は大きすぎます。ロケ地選びは失敗だったのではないですか。)
のろろ様の呪力が本物であることは、祭列に参加していた杉山が「やってられるか」と言わんばかりに抜け出したら、突然豪雨になり、祭が中止になったことからもわかります。
(移住者たちががいきなり?なぜ?大事な祭の参列者になれたのか大いに疑問ですが)
しかし終盤にいきなり都合よくのろろ像が倒れ込んで、伝説に頼って海に飛び込んだ二人のうち一人が伝説通り助かるのには驚きました。
サビなど取ってつけたようないくつかの伏線はあるにはありましたが、説得力はなく、あまりに戯画的に過ぎるでしょう。

一方、
殺人犯をはじめ、受刑者の社会復帰は現実社会の大きな課題です。
地域社会の市井の民にとって、移住者というだけで受け入れをためらう心情は日本社会に厳然として残っています。
(『怒り』の中で松山ケンイチ演ずる流れ者が疑われたように)
まして前科がある他者がすんなりと溶け込んで生きていける土壌はありません。
(星野源さん主演のTVドラマ『プラージュ ~訳ありばかりのシェアハウス~』など参照)
この課題は極めてリアルです。


つまり、この作品には、荒唐無稽な描写と現実世界のリアルさが激しく混在しているのです。
大きなストーリーだけでなく、一人の役者の中にも混在しています。(←俳優がその混在をうまく把握表現できていなかったようです。特に松田龍平さんと錦戸亮さん。この二人だけはどうしても理解した上で表現しなければならなかったのではないですか。)
これは見方によってはとてもおもしろい設定で、成功すれば大いなる作品に化けていたかもしれません。
しかし、残念ながら違和感がありすぎです。

これらを両立させるには、どうすればよかったでしょう。
もちろん私は素人ですから、卓抜したアイデアは出せません。
思いつきを申せば、たとえば悪辣剛腕の中央政治家が、自分の政治的課題を一挙に解決するプランとして移住を思いつき、強引に実行したというケースならどうでしょう。
それだけでも、はちゃめちゃながら十分に楽しめる娯楽作になったように思います。
憲法違反も(とりあえず)スルーできますし、のろろ伝承も生きるでしょう。
スタートに力技が必要だったのではありませんか。


吉田監督の『桐島、部活やめるってよ』では現実と荒唐無稽の融合がみごとに実現しました。
ヒエラルキーの頂点に立つ者が突然不在になるという極小に見える出来事からスタートし、その後大混乱になって行きます。
混乱は戯画的です。しかし高校生が出くわす問題はリアルです。
学校中を巻き込む戯画的な混乱の中でリアルな苦悩が描かれ、疑問を抱く間も無く進行していきました。
ある意味これも力技。
キャスティング面での成功もありました。たとえば神木隆之介さんのような、主役でありながら狂言回しに徹することができ、リアルと戯画の間を自由に行き来でき、しかも作品全体の雰囲気をコントロールできる人材を登用したことも大きな成功要因だったと思います。
その点、今作の錦戸亮さんと松田龍平さん、木村文乃さんでは力不足が否めません。

マンガの映画化は苦手だったのかもしれない吉田大八監督、次回作にもう一度マンガにチャレンジされることを期待します。



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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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