2018年04月03日

『怒り』:映画の空白を読む

データ
『怒り』
評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:2016年
鑑賞:封切り時スクリーンにて
監督:李相日
俳優:渡辺謙 森山未來 松山ケンイチ 綾野剛 広瀬すず 宮崎あおい 妻夫木聡 池脇千鶴 高畑充希
   原日出子 佐久本宝
製作:日本
allcinemaの情報ページはこちら

コメント
斬新な発想で制作された優れた映画。私の好きな役者が多数出演していますが、それぞれの演技はやはり素晴らしい。その中で実力的には一歩下がるかと予想した渡辺謙さん、妻夫木聡さんも奮闘。とりわけ妻夫木さんの登場人物らしさは本物。いい役者になりましたね。『ジョゼと虎と魚たち』(2003,犬童一心監督)以来好きな俳優なのですが、TVドラマ『若者たち』(2014)で達者な演技を見せてくれたので、期待はしていました。
そして演技のピカイチはやはり綾野剛さん。妙な言い方ですが、存在感が無いくらい存在していました。
それから宮崎あおいさん。知恵遅れの人の演技は懸命にこなしていたという印象ですが、しかしこの映画の主題をもっとも深く理解していたのだろうと思います。賢い方なんですね。
松山ケンイチさん、暗く鋭い目つきで登場。しだいに目つきが和んでいく。しかし最後まで暗さを拭えない。そんな役を好演してくれました。
大作であるにも関わらず、作品として破綻も過不足もなく仕上げた李相日監督の手腕は見事というしかありません。詳しくは下記の批評で。
佐久本宝さんは沖縄出身の若い俳優。『肝高の阿麻和利』で七代目阿麻和利役を演じた経験がある、と書けば頷く方もおられるのでは。沖縄の空気感を引っ張って来てくれました。
いつも体当たりで役と取り組む姿勢が好印象の広瀬すずさんは、この作品でも真正面から演じました。TVドラマ『anone』(2018)でも好演しました。将来は久々のスター女優になるのではと期待しています。ボイストレーニングをお忘れなく。
最後に森山未來さん。『苦役列車』(2012、山下敦弘監督)での超絶演技は忘れられません。舞台『プルートゥ PLUTO』(2015)ではカラダのキレを満喫しました。彼ならこの役はこなせます。ただし作品の構成上、少し抑制せざるを得なかったと思われます。

一年以上経ってもっとも印象に残っているシーンは二つ。宮崎あおいさんの号泣と、綾野剛さんが買ったコンビニ弁当がうまくポリ袋に収まらないところ。後者は妻が大喜びしたシーンでもあったので私も影響されたかもしれません。



批評

映画『怒り』の空白をどう読むか


『怒り』:映画の空白を読む




1.「映画がこっちを潰しにくる」高畑充希(パンフレットより)

「映画がこっちを潰しにくる」
李相日監督作品『怒り』の中で薫役を演じ、
出番が少ないながらもその印象的な目の表情と説得力のある語りを駆使し、
多くの登場人物の中でもっとも明瞭な輪郭を示した高畑充希さんの『怒り』評です。

でも果たして本当にそうなのか、
高畑さんがまだ若いから圧倒されただけではないのか、
この映画の鑑賞後、
映画をたくさん見て、人生経験をいっぱい積んだ大人ならそういう疑問が湧くでしょう。
高畑さんの批評は的確なのか。
たしかにそれほどの映画作品なのか。
わたしはそういう問題設定をした上で、その疑問を検証したいと考えました。

実践を積んだ映画ファンであっても、この映画には少し戸惑いを感じたはず。
それは「行間を読む」といったレベルから逸脱した空白領域の多さが原因です。
説明されないことがとても多いのです。
その空白の量が適正なのか、それとも失礼ながら駄作の証明なのか、
そこらあたりが検証の主眼となります。
つまり、映画の空白を読んでみたいのです。


以下の文ではいわゆるネタバレが満載になります。
映画を観られてから読んでいただくようお願いします。
なおわたしは吉田修一氏の原作を読んでいませんし、
この映画も(刺激を受けた脳内は何かと横道にそれながら)一度見ただけ。
ディテールの誤りはお許し願います。



さてこの作品は複雑で多層的な構造から成り立っています。
縦軸には<「怒り」とはなにか><人を信じる、あるいは疑うこととはどういうことか>、
そして<真犯人は誰か>という三本の軸線が引かれます。
横軸には<千葉><東京><沖縄>の三つの舞台が用意され、その地に住む人々のドラマが背景にあり、その目前にそれぞれ不審な人物が現れます。
その不審な人物たちは、東京都の八王子で起きた夫婦殺害事件の犯人に似た人相風体の三人です。
その犯人は事件後整形手術を受けているはずという設定です。



まずは横軸から見ていきましょう。
千葉編の要旨を詳しく書き、他の二編は簡略にします。




『怒り』:映画の空白を読む

      千葉:(C)2016 映画「怒り」製作委員会


2.<千葉>
「いつまでも残る怒りって」あるじゃないですか」
松山ケンイチ(パンフレットより)


漁港の漁協で働く槇洋平(渡辺謙さん)。その娘が愛子(宮崎あおいさん)。愛子のいとこが明日香(池脇千鶴さん)。
彼らの前に現れる不審者は田代哲也(松山ケンイチさん)。

洋平はやさしく見えるが実は受動的で優柔不断な性格。おそらくはしっかり者だっただろう妻に先立たれたあと、娘愛子と正面から向き合わ(え)ないまま育てた。父親としての自信が持てないのだ。
加えて愛子は軽度の知的障害者(またはボーダー)だから、洋平は娘の行末を心配するものの、愛子の行動や判断を信じきれていない。
そういう子育ての経緯は映画ではまったく説明されていない空白領域なのだが、観客はそれくらいはわかる。
「愛子だから(信じられない)?」と尋ねる愛子の痛切な問いが洋平はもちろん観客をも貫くからだ。

愛子は家出をし、東京の性風俗店で働いていた(働かされていた)。愛子もまたやさしく見えて受動的で信じやすい性格なので、客の過激な要求にいちいち応じていたため、起き上がれないほどのダメージを受けていた。
愛子の居所をNPOから教えてもらった洋平は、愛子を故郷に連れ戻す。
駅まで軽自動車で迎えに来たのは明日香。夫も子供もあるようだが、おじと愛子を放ってはおけない。
開口一番愛子をたしなめたあと、「おじさんが甘やかすから」、と一言。
あとでこの「甘やかし」は実は「優柔不断」の外見なのだとわかってくる。
勇気のない洋平は娘ときっちり向き合わないから、娘を信じられないまま。

愛子の家出の原因(怒り)はここにあったのだろう。
自分は頭が弱いから愛されていない、必要とされていないのだと感じている。
肉体を求める客の方がマシに思えたのかもしれない。
いややはり、アダルトAV界、性風俗界の現状へ批判だろう。
知恵遅れの女性が甘言を弄する業界人の魔手の餌食となっている現状への。


『怒り』:映画の空白を読む

千葉:(C)2016 映画「怒り」製作委員会



話を戻す。
雨の中愛子と洋平を乗せた明日香の軽自動車は、レインコートを着て自転車に乗る若い男と出会う。田代哲也だ。
どこかよそから最近流れてきた青年で、いまは漁港でアルバイトとして働いている。
フードの中で目を鋭く光らせる登場シーンの演技は、観客から「こいつが殺人犯か」と怪しまれるに十分で秀逸。
怒りが熾火のように燃えている。
明日香は哲也が流れ者であることを愛子たちに説明する。

父親に弁当を届けていた愛子は、哲也の分も作ることにする。
愛子の積極的な働きかけで、愛子と哲也は急速に親密さを増していく。
哲也は人を信じきれない。そういう男性にとっては愛子のように無邪気に人を信じる存在が閉塞状況を打開できる女神になることがままある。
風俗勤めの結果、漁港の町で辛辣な陰口を叩かれていることを愛子はわかっている。
そもそも、町が愛子を受け入れてくれていれば家出はしなかったはず。
同質の者にしか心を開かない日本の悪弊。
そのはみ出し者愛子とよそ者の陰のある哲也とは惹かれ合う。いや、肩を寄せ合った。
愛子は無邪気に哲也を信じた。
マイノリティーとマイノリティーの心が結ばれた。

TVでは、興味本位に八王子の殺人犯(山神)の番組をひんぱんに流す。
整形した山神の想像図も電波で、あるいは警察経由で広がっていく。
逃亡犯の整形手術とは、単に姿をくらますだけでなく、該当者(候補者)が格段に増殖することになるのだなと思った。

洋平は愛子が哲也と一緒に暮らすことを受け入れたのだが、
しだいに哲也が殺人犯ではないかという疑いを抱いていく。
受動的で人を信じる胆力のない洋平は、その疑いを一人で抱えることができず、明日香に打ち明けてしまった。
明日香は口軽にそのことを愛子に言う。
愛子は信じてくれない父親に怒りをぶつける。
この時のセリフが前述の「愛子だから(信じられない)?」
私の頭が弱いからだまされていると?

それまで愛子は「父親の借金から逃れ各地を転々として暮らしている」という哲也の説明を信じていたのだ。
だから父に刃向かった。
が、しかし、洋平や明日香は身内として<世間>へ(から)の窓口の役割を果たしている。
その窓口から届いた疑心が彼女をじわじわむしばんでいく。
ある日港湾の掲示板に貼られた殺人犯(山神)の似顔絵をじっと見ている愛子を洋平は発見した。
その似顔絵は巧みに松山ケンイチの要素を採り入れていて、確かによく似ている。
このあたり、映像作品のおもしろさの在りどころを監督は熟知している。

ある日とうとう愛子は出かけている哲也に電話でこう言った。
「あなたが犯人でないなら昼までに帰ってきて」
TVドラマではないのだから、疑う者自ら証拠を見つけることなどできない。
哲也を信じきれなくなった愛子は、哲也本人に黒白の決着を委ねたのだ。
哲也は帰ってこなかった・・・
洋平と愛子は警察に通報し、刑事(三浦貴大さん)が調査を請け負う。

時間が経ち、
再び刑事が洋平・愛子を訪ねてきた。
捜査の結果、哲也が殺人犯(山神)でないことが判明したと。

信じることができなかった洋平はがっくりと膝を降り、
信じきれなかった愛子は号泣する。
その愛子の号泣ぶりは、女優宮崎あおいさんの渾身の演技でリアルになった。
愛子は臓腑の底から怒ったのだ。
こんどの怒りの的は父親ではない、世間でもない。
哲也を信じきれず、黒白の決着を相手に委ね、さらに警察に通報までした自分に対してだった。



<人を信じる>とは何だろう。
二種類あるように見える。
人に向かって言葉にする<信じる>は自分の思い通りにするための投網。
「(親である、教師である、監督である、上司である)わたしは君を信じている」〜
これは呪縛。他人に呪(しゅ)をかけたことに他ならない。
自分の期待する結果を見たいから。
いっぽう、内的に、心の中で<人を信じる>とは何だろう。
信じるという精神的行為はつまるところ胆力なのだ。
呪縛をかけるのは自分自身。
万一裏切られることになってもその結果を受け入れる覚悟をすることなのだ。
胆力や勇気がなければできないことではないか。



映画のストーリーはもう少し続く。
洋平や愛子がその覚悟や勇気や胆力を手に入れたかどうか、
映画を見た方は思い出してほしい。





『怒り』:映画の空白を読む

(C)2016 映画「怒り」製作委員会


3.<東京>
「僕たちマイノリティではあるけれど、ちゃんと愛し合っている。そこには普遍性がある。その普遍性はこの映画の土台になっている。」
綾野剛(パンフレットより:一部改変)


ゲイの二人、藤田優馬(妻夫木聡さん)と大西直人(綾野剛さん)の物語に、優馬の母貴子(原日出子さん)と直人の幼ななじみ薫(高畑充希さん)がからむ。

優馬「おまえのこと疑ってんだぞ」
直人「疑ってるんじゃなくて信じてるんでしょ。信じてくれてありがとう。」

このやりとりが鍵になる。
そう言われても優馬は、殺人犯の写真によく似た(=素性のよくわからない)直人を疑う。
幼なじみの女性と中目黒であっている時の直人の屈託のない笑顔に嫉妬する。
つまり自分たちもそんな心許しあう関係になりたいという怒り。

「疑ってるんだぞ」とはつまり「信じているんだぞ」という言葉と同義。
やはり優馬には直人が犯人でなく、このまま愛し合って家族として共に暮らしたいと願い、
直人に呪文をかけている、と見ておきたい。
この時点で優馬には勇気や胆力が不足していることになる。

4人の演技がすばらしい。
男性二人とホスピスで療養中の貴子とが楽しそうに会話するシーンが胸を熱くさせる。

結末で優馬の胸を去来したのは、
信じきれなかった自分への怒りに他ならない。
マイノリティーでありながら、
マジョリティー側に属するマスコミや同僚の情報にむしばまれてしまった自分に対する怒り。

わたしは貴子が息子がゲイであることに気づいていたと思うし、
直人は最後まで優馬を信じていたと思える。
映画を見た方、いかが?





『怒り』:映画の空白を読む

(C)2016 映画「怒り」製作委員会


4.<沖縄>

「嘘だろ。信じていたから許せなかった」
という辰哉の思い、怒りは、やはり勇気や胆力の無さの告白でもある。
内心で信じた場合は期待の投網をかけてはいけないんだよ、辰哉くん。


沖縄が舞台であるということは、その土地そのものが(こんにちの日本国の構造の中で)マイノリティーであることを意味する。
よく言われるように、沖縄はまだ戦後であるからだ。いやむしろ戦争が続いているからだ。
三上智恵監督のドキュメンタリー映画『戦場ぬ止み』のタイトル通り、沖縄はいまだに「戦場(いくさば)」だから。

沖縄のコメディーでは定石だが
内地の青年劇場の芝居『修学旅行』という傑作演劇でも、
登場人物が大切なことを言おうとするたびに嘉手納基地から飛び立つ軍用機の爆音が邪魔をして客席は爆笑に包まれる。
この『怒り』にも似たようなシーンがある。
加えて小宮山泉(広瀬すずさん)が米兵にレイプされるという、生々しい現実までつけ加わる。
象徴も現実もてんこ盛りだ。
この映画にサヨクの臭さが漂う、とお気に召さない方がいるようですが、
それはとんでもない言いがかりです。
そう、これは生々しい現実なのですよ。
(ここではわたしが怒っている)


『怒り』:映画の空白を読む

沖縄:(C)2016 映画「怒り」製作委員会


泉に思慕を抱く沖縄の少年知念辰哉(佐久本宝さん)は、
自らの失態が招いたこの残酷なできごとに怒る。
情けない、何もできなかった自分自身に怒りは向けられる。
反基地運動に長年たずさわってきた自分の父親を「なにもかわらないのに」と冷笑していた自分への怒りもいずれ芽生えるはずだ。
しかしまだそこには至らない。映画はそこまでは描かない。

そんな辰哉が心を寄せる拠り所は、素性の知れない田中信吾(森山未來さん)という流れ者だけだ。
信吾の「お前の味方になるからな」という一言を彼は信じている。

実は信吾に惹かれたのは泉が先だった。
高校生の泉は好んで沖縄に住んでいるのではない、内地からの移住者だ。
おそらくまだ沖縄になじめていない。だから沖縄という現実と正面から向き合っていない。
ここが辰哉と同じだ。
(男にだらしない、男に依存して暮らしていると泉が考えている)母親を軽蔑していて、おそらくは早い自立を切望している泉は、それだから無人島で一人で暮らす信吾に、惹かれたのだ。
リアルな人間を信じられず、その代用としてよく知らない人間を信じてしまうのは思春期によくある心の働きだ。
もっとも昨今の日本では、オトナまでそのようなよく知らない人を信じてしまうケースが増えているように感じる。
それは信じているのではなく、ただの無知、反知性にすぎない。
危険で愚かだ。

信吾の背景に関する映画描写の空白は、空虚に思えるほど広い。
千葉の哲也の過去もほとんど説明がない。
東京の直人の過去も当初は謎のままだった。
それだけに八王子の殺人犯人ではないかと疑われてしまうのだ。
しかし沖縄の信吾の過去は二人以上に白紙状態なのに、
泉も辰哉も辰哉の両親まで信吾を信じきってしまう。
それはなぜだろう。

信吾には「俺は相手を見た時点で敵か味方かがわかる」という趣旨のセリフがあった。
これは本当の気持ちだと思う。
味方だと信じたら彼は心を開く。
心を開いた人物に対しては人は誰でも好きになる。
味方になると信じたものだけと交流しているだけなら信吾は傷つかずに済む。
(泉も辰哉も、そこは同じ。)

つまり信吾の過去には強烈に傷を負った歴史が累々としている(はず)ということだ。
その経歴の結果、敵を見下す自己肥大に頼って自分自身を維持してきたのだろう。
適応障害の人格。
生い立ちから悲惨な出来事があったに違いないが、それは空白のまま。
生きていく上でその怒りは溜めに溜められ、
容量を超えたら世界全体に向けて怒りが爆発する。
しかし世界を相手に戦うことはできない。
手榴弾のピンを抜いても、目の前のいくばくかの敵を殺傷するだけ。
被害はそこにいる、わずかな傷を信吾にもたらした者に向かう。


結末で見せた泉の怒りの叫びは具体的な出口がない慟哭。
しかし出口を見つけるためにはどうしても吐き出しておかなければならなかった怒り。
心がひとまわり強くなった、立ち直りの証だと思いたい。
母親との関係、沖縄への気持ちも変化するだろう。
泉ちゃんしっかり!





『怒り』:映画の空白を読む

沖縄:(C)2016 映画「怒り」製作委員会


5.<最後に>

高畑充希さんの映画評は的確でしたね。

拙文で映画の空白はおおむね埋まったと思います。
むしろ空白の荒野のような広さがこの映画には必要だったのだと思います。
と同時に、編集でカットされたはずのおびただしい映像が愛おしくなります。

決して説明足らずの凡作、駄作ではないことがおわかり願えたと思います。
力強く、挑発的で、刺激に満ちた良い映画作品でした。

この映画を見て、わたしは、
李相日監督、スタッフ、役者陣、そして(読んでいないが)原作の吉田修一さんから
わたしは強烈な問題提起をされた、いや挑まれた気がしたのです。
あんたはどう考えるんだと。
あんたはどうやって生きてるんだと。
たいした応えはできませんでしたが、
一観客として精一杯のお返しをここでさせていただいたように思います。
潰されないていどには(笑)



同じカテゴリー(映画)の記事

Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。