『暗殺のオペラ』:だまし絵の奥に見えるもの
データ
『暗殺のオペラ』Strategia del ragno(蜘蛛の戦略)
評価:
☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:1971年(日本公開1979年)
鑑賞:2019年BS/CSで視聴。
監督:ベルナルド・ベルトルッチ (ベルトリッチ)
原作:ホルヘ・ルイス・ボルヘス:超短編の『裏切り者と英雄のテーマ』
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジュゼッペ・ヴェルディ、シェーンベルク、ミーナ
俳優:ジュリオ・ブロージ アリダ・ヴァリ ティノ・スコッティ ピッポ・カンパニーニ フランコ・ジョヴァネッリ アレン・ミジェット
製作国:イタリア
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「父はどんな男でした?」という問いに背を向けるアリダ・ヴァリ:この構図『第三の男』のオマージュでは?:予告編より
コメント
傑作です。ですがベルトルッチ監督の「だまし絵風手法」※に惑わされそうになります。
※筆者不詳ですがそういう批評を知りました。なるほどと思いました。
こういう映画を散漫な気持ちで見る人はいないかと思いますが、もしいたら何が何だかわからなくなる、美しいだけのつまらない映画になってしまうかもしれません。そうは言ってもあまり真剣にシーンの意味を考えすぎてもかえって本筋を見失います。相撲の仕切りのように両者呼吸を合わせてから立ち合いすればあとはスムーズです。そうなるまでに恥ずかしながら私は10分か15分くらい必要でした。その部分をもう一度巻き戻して(笑)改めて最初から観たのです。先に観た『ラストエンペラー』にはそういう若々しい仕掛けはありませんでしたので、今回は少々戸惑いました。わかってしまえばその「だまし絵」は美しい映像と並んで本作の最大の魅力になっていると感じます。
本作のイタリア語の題名は『Strategia del ragno』。和訳すれば『蜘蛛の戦略』とでも言いますか。しかしこの原題のままだとかなりのネタバレになってしまいますから、『暗殺のオペラ』というなんだかよくわからない題名も悪くないなと思っています。監督のもう一本の傑作『暗殺の森』の翌年にイタリアで公開されたので、それとの整合性で選んだのでしょうが。
まったく個人的な感想ですが、私が観たベルナルド・ベルトルッチ監督作品の中で好き度の順位付けをすると、『暗殺の森』(1970)>『暗殺のオペラ』(1971)>『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)>『ラストエンペラー』(1987)>『シェリタリング・スカイ』(1990)になります。どういうわけか制作年代順に並んでいるのが自分ではとても興味深いです。評判の高い『1900年』(1976)は未見ですので、この先のチャンスが楽しみです。好き度が年代順になっている理由はまだ考えていませんが、批評欄で多少関連する論考を行う予定です。
本作のストーリーなど具体的な内容については、批評欄で最低必要なことだけに触れることにします。もし全容を知りたい方は、「映画ウオッチ」サイトの本作の解説をお読みください。ずいぶん詳しく書かれています。
主演のジュリオ・ブロージさんは父と息子の二役。それぞれが持っている空気感をうまく変えて演じていました。
アリダ・ヴァリさんは主人公を振り回しつつ戦中の記憶から抜け出せない女性を神秘的かつ毅然と演じました。
他の役者陣も好演です。
蛇足ですが、映画の後半から私の脳裏をしきりに去来したのは、江戸時代の日置藩の大一揆の首謀者正助の末路です。(白土三平『カムイ伝』)
切れ物の代官の登場により、正助は悲劇の英雄になる道を(本人はその気もなかったでしょうが)絶たれただけではなく、裏切り者の汚名を着て生きながらえる地獄に突き落とされました。
正助に本作の主人公のような蜘蛛の戦略があったならどうなっていたのだろう、と虚構と虚構とを比較しながら心痛い思いで過ごしていました。
上述の「だまし絵的手法」の好例です。説明は省きます。:予告編より
批評
ベルナルド・ベルトルッチ監督にとってこの作品は、イタリア人として行った、第二次世界大戦と戦後の総括だと考えて良いと思います。
イタリアは、自分たちは、間違いを犯した。そしてその誤りをきちんと反省・総括しないまま次の時代に向かおうとしている、と。
以上が結論。あとはその根拠を書くだけです。
ご存知の通り、イタリアはファシズムという名の政治体制を生み出した国家です。
ムッソリーニが1919年に”イタリア戦闘者ファッシ”、1921年に”国家ファシスト党”を結成した頃よりイタリアの政治体制はファシズム一色に染め上げられ、その体制は国民の生活の規範になったどころかイタリア人の心まで支配しました。
そのイタリアとドイツ、そして日本という全体主義的な政治体制を構築した三カ国(あるいはスペインを加えた四カ国)が手を組んで第二次大戦を引き起こし(枢軸国)、連合国と戦ったため、連合国(ソ連など社会主義国家も含め)側からはまとめて”ファシズム””ファシスト”と一括して呼ばれることになったのでした。この結果、最初は単なる”結束主義”(≒団結主義)という意味だったファシズム(イタリア語ではファシズモ)という用語にたいへん深刻な意味を加えて使われるようになりました。
その意味とは、詰まるところ、個人の圧殺と国家の君臨です。
日本の戦時中の有名な標語「尽忠報國」、「生めよ殖やせよ國のため」、「家は焼けても 貯金は焼けぬ」などなどをざっと眺めてもそのおぞましさは理解できるでしょうが、ドイツでもイタリアでも同じことでした。軍事・警察力の脅迫と同調圧力のもと、生活や思想まで一色に染め上げることがファシズムの本質です。利益を得るのは支配層の政治家(イタリアならムソリーニ率いるファシスト党)とこれと連なる軍人や産業資本家、そして蜜にたかるように集まる有象無象たち。
個人の自由、人間の尊厳を踏みにじるこのファシズムはいくさに敗れ、イタリアでも粛清が行われ、国民も形ばかりの謝罪・反省はしたのですが、総括を不断に続け二度と過ちを繰り返さないように努めることはできませんでした。
堅苦しい話が続いていますが、これこそがこの映画のテーマなのです。本作をご覧になった方にはお分かりでしょうが、反ファシズムの試みを行ったイタリアの或る街ターラ、つまりはイタリアの良心にたどり着く鉄道軌道には草が生え、列車はもう絶えて久しく到着していないのです。主人公が一人の水兵とともに街に来たときには確かに列車で着くことができたのに。
全員で伝説を守るターラの街の人々。
しかしその街には老人と子供しか暮らしていません。
イタリアを背負う青壮年男女はもうこの街を捨てたのでしょうか。
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