2018年06月28日

『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない

データ
『万引き家族』

評価:☆☆☆☆☆☆☆☆・・
年度:2018年
鑑賞:封切り時にスクリーンで鑑賞。
監督:是枝裕和
撮影:近藤龍人
音楽:細野晴臣
俳優:リリー・フランキー(治) 安藤サクラ(信代) 松岡茉優(亜紀) 樹木希林(初枝)
   城桧吏(祥太) 佐々木みゆ(じゅり/りん)
   池松壮亮 緒形直人 森口瑤子 山田裕貴 片山萌美 柄本明 高良健吾 池脇千鶴
製作国:日本
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『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない

写真は全てパンフレットより


コメントと批評:見えない花火を見上げてみよう

どなたにも鑑賞していただきたい秀作でした。
俳優さんたちの演技力が素晴らしい上に、随所に観客の想像力や知力、感性を刺激する試みが施されていますので、観てから日数が経ったにもかかわらず、私はまだまだ未消化状態なのです。
また、話題作だけに、多くの識者が本作の批評を書いておられるようですので、私は遠慮しておきましょう。
ここでは、自分が受けた刺激の率直な断片だけを列挙するようにします。
いずれまとまった文を書きたくなれば書き足します。


『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない



治(リリー・フランキーさん)の箸の持ち方に気付きました。
いわゆる「きたない」持ち方です。
治が(良い意味のしつけもされている)標準的で温かい家族の中で育って来なかったことが一目瞭然。
細部まで監督の目が行き届いている映画なのです。

リリーさんは治という人間性に軸が通っておらず自信も甲斐性もない男の役をイキイキと演じておられました。
リリーさんといえば、彼の演技にいつも感じるのは、役の背後に本人の知性やセクシーさが見え隠れしてしまうことです。
今回も、治はだらしないけれど汚れきってはいず、壊れきってもいません。治ではなくリリーさんがそこにいます。

このことは演技派役者としての弱点になると私は見ているのですが、しかしもし本作でそこを突き抜けた演技をされてしまうと、(『苦役列車』の森山未來さんの演技のように)観客がこの家族に感情移入できなくなってしまったでしょう。ほどよいダメさだったと申し上げておきましょう。
また、父親になりたいがなりきれない、どうすればよいかわからない切なさが響いてきます。
彼には「男」のモデルがいないのと同様、「父親」のスタンダードもないのでしょう。
でも、虐待されていたじゅりやおそらく同様だった祥太を見捨てられない優しさ、、
バスを追いかけるシーンは、城桧吏さん(祥太)のグッと前を見据える表情とのマッチングが絶妙でした。


『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない



信代(安藤サクラさん)が「好きだから叩くなんて嘘だからね」と縁側でじゅりを抱きしめるシーンは秀逸でした。
いえ、このようなシチュエーションとこのようなセリフには散々既視感があるのですが、安藤サクラさんの心からのやさしい声がスクリーンから客席の私まで包み込んでくれたようで、たまりません。信代の傷跡もきっとDVの結果でしょうが、その人生を踏まえてこのセリフを声に出しているのでしょう、素晴らしいなりきり演技です。信代もじゅりと出会うことで救われるのですから、夫婦の罪を一人かぶっても平気だったのでしょう。

また、警察の取り調べで「(じゅりは)あなたをなんと呼んでいたの」の問いかけに不器用な子供のように泣く姿は、私がこれまで映画で見た泣きのシーンの中でも指折りの名シーンでした。

本作でのサクラさんは、映画前半と後半でその表情、言い換えれば輝きや美しさが全く変わります。『0.5ミリ』をはじめとする諸作品で日ごろ贔屓にしている役者さんですけれど、今回はその作品途中の変化に驚かされました。
スター女優的美人ではなく「私たちと陸続き(by妻)」の容姿であり、しかもこの難易度の高いなりきり演技ができる才能は、そりゃあ是枝監督がこの作品の主役に彼女を起用したくなるわなあ、というのが率直な感想です。


『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない



悠木千帆さん時代から、個性派俳優というよりむしろ怪優という名にふさわしかった樹木希林さん。
何のTVドラマでしたか、渥美清さんと共演のシーンでのヒリヒリ感が今でも蘇ります。
彼女は今や映画界の至宝と呼ばれるべきです。

河瀬直美監督の『あん』でのように白希林も演じられるし、本作のパチンコ店で隣席の玉を失敬するような黒希林もできる〜これは妻の評でした。
世代を若くすると、大竹しのぶさんや田中裕子さん、あるいは蒼井優さんなどに至宝の系譜は受け継がれてはいますが、希林さんの個性は唯一無二ですから、替え玉はききません。どうかいつまでもお健やかに。

彼女が登場する印象に残る場面はたくさんあるのですが、海辺での家族揃っての行楽シーンや見えない花火を見上げるときの穏やかな表情が、いま特に思い出されます。


松岡茉優さん。彼女も『桐島、部活やめるってよ』で出会って以来、私たちがずっと注目している俳優さんです。
『ちはやふる -下の句-』では一瞬の目力で観客をも射抜き、妻によると「(作品中の若手俳優の中では)別格」でした。
その松岡さんが、本作ではまるで演劇初心者のように初々しいのです。
サクラさん、リリーさん、希林さんおそるべし。
いえ、松岡さんをけなしているのではなく、人生の厚みの多寡は如何ともしがたいということと、それこそが監督の起用の目的なのでしょうと言いたいのです。
松岡さん扮する亜紀が、「軽めの風俗(by リリー・フランキーさん)」の勤務中に、客としてきた4番さん(池松壮亮さん)を抱き、「あたたかいね」と言ったセリフは本作最高の名セリフだと思っています。
その一言でおそらく4番さんは救われたことでしょうし、血縁の無い家族でも温かい家庭は作ることができるという示唆だと思えました。


他にも、「家族」が瓦解するきっかけになった駄菓子屋の店主を演じた柄本明さんは、ストーリーを反転させるにふさわしいパワー演技を見せてくれました。子役の二人はもちろんとても良かったし、池脇さんや高良さんにも触れたいし。
でも、そろそろ話題を転換していきます。


『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない




反響の多い映画ですね。
本作が描くこの世界に否定的な意見もゴマンと見かけます。でも、
日本で同時進行で起きている格差の拡大(貧困層の増大)と家族の崩壊は、もはや元に戻れない臨界値に達しているのではありませんか。
万引きで生活している家族を題材にしたことを批判している人は、この状況が見えていないのです。

小泉=竹中コンビによる日本ぶっ潰せ大作戦は今や安倍首相率いる自公維連立政権(に見える)の手によってほぼ完成間近。
いわゆる先進国中で日本ほど経済力と国民生活のレベルが下降している国は少ないです。(嘘!?という人は自分の目でちゃんとしたデータを調べなさいね。)
安倍首相の無能(米国から見れば有能)を隠し吐いた嘘を守るバリケードのように、いや援護射撃ですか、自民や維新から暴言の嵐。
国民の視線が霧に隠れる、または国民に諦めさせる極意の数々が放たれています。
ちょうどこの文章に取り組んでいる時の暴言を二つ紹介しておきます。
竹中平蔵パソナ会長「時間内に仕事を終えられない、生産性の低い人に残業代という補助金を出すのも一般論としておかしい」
二階俊博自民党幹事長「今は食べるのに困る家はない。こんなに素晴らしい、幸せな国はない」
・・・二階さん、それなら本作品はまったく現実離れしたお伽話なのですね。



「カップ麺よりも自炊の方が安くつく」という批判が数多くあったようですが、「生活保護を受けているヤツが車に乗るな」的なとても傲慢な冷血を感じます。
経済的な貧困の問題だけではないのです。千年、二千年と貨幣経済と付き合って来た人類は、お金がなくても知恵と工夫と矜持でなんとか恥ずかしくなく生きていける術を身につけて来ました。
ところが今日の日本では、貧困がそのまま不幸に直結してしまうことが喫緊の問題なのです。
貧困が知性や教養、法の遵守や礼儀作法の欠落とイコールで結ばれて来てしまったことが問われるべきなのです。
反知性の生き方や考え方はとても危険です。
「カップ麺よりも自炊の方が安くつく」と言い放って終わる攻撃は、万引き家族と裏腹の反知性の表れです。

だいたい、今日の社会で家族が自炊を貫くには条件があります。
1)まず台所があって、調味料や調理器具があること。
2)光熱水費が払えること。
3)子供時代から料理をしている家族を見慣れていること。
4)家族の活動時間帯がある程度一致していること。
5)家族のために料理の時間を割くだけの余裕がある人が家族の中にいること。
6)いま食材を購入する現金があること。

以上の条件がある程度揃った上で、
安い食材・安全な食材を探し、多少は手間暇をかけて調理し、食材の無駄をできるだけ減らし、なるべく家族全員で食べる〜
そうすることでやっと、カップ麺やインスタント食品より自炊が安くなるのです。

現在では、自炊にすら育った環境や知性が必要なことがお分かりになったことと思います。
その上でお互いを尊重しあえる人どうしの家族であれば自炊や食事は楽しいですよね。
つまり、真の意味で仲の良い家族や仲間どうしでこそ自炊は生きるのです。
ほら、本作の後半に鍋料理を美味しそうに楽しそうに食べていましたよね。
「家族」が家族になったからです。あるいはともに生きる仲間になったからです。そういうことです。



『海街diary』ですずちゃん(広瀬すずさん)は自分の意志で家を出て、三人姉妹と共に暮らすことを選びました。
本作でも、虐待を受けていた幼いじゅりは、自分の意志でりんという名を受け入れ、「万引き家族」と暮らすことを選びます。
正確なセリフは記憶できていませんが、「自分で選んだら『絆』が生まれるのでは?」と照れながら信代(安藤サクラさん)が語る場面は胸が詰まる思いでした。

3.11の後、ほぼ官製のスローガンとして「絆」が多用され、この美しい日本語が濁った醜い言葉になってしまったと感じたのは私だけではありますまい。あの震災と原発事故への反応としてふさわしい日本語は「哀」と「怒」だったはずなのに、「絆」の流行は震災の中の人災の部分と震災への行政の対応不備をみごとに消し去る効果を発揮し、言葉として無化されました。

しかし是枝監督は本作でこの「絆」を生きかえらせることに成功したのです。
パルムドール受賞もめでたいですが、私は日本語蘇生大賞を設け、監督に金メダルを差し上げたいです。


『万引き家族』:見えない花火は見えていたかもしれない




私は是枝監督作品に相性十分な鑑賞者とは言えません。
好きな監督なのですが、どこか突き抜け不足を感じてしまうのです。

たとえば『海街diary』はその不満をあまり感じず、満足度・完成度の高い佳作でしたが、その分スケールは小さく、普遍性の広がりを感じさせない点が、私の好みとしては物足りませんでした。
親不在の三人姉妹家族が、異母妹のすずちゃんを新たな家族に迎え入れる物語で、とてもステキな気分になれましたし、家族とは何かを考えさせる作りにはなっているのですが、現実社会で崩壊しつつある家族制度のはるか後方を歩く物語でした。

その点今回の『万引き家族』は、ほぼ血縁関係のない(と推測される)6人が、つまり、いったんそれぞれの家族が崩壊した(と推測される)6人が集まって「家族」を形成していく物語なので、明日の、未来の人間の「家族」像を模索していることになるのです。

また、その6人の結合には万引きという犯罪が介在していますので、今日の社会ではいつか必ず瓦解することになりますから、新しい「家族」の接着剤としては他に何がありうるのかを考えさせ、そしてその先の地平で、(旧来の)家族はほんとうに必要なのかと問いかける作品でもあるのです。

さらに、日本の家族が一斉に崩壊しつつある現状に観客が向き合うことを期待し、その直接原因や根本原因に思いをはせることを本作は暗に求めています。
これは是枝監督が、本気で(映像作家として)<情況>に向き合う決意を表明した映画だろうと私は受け止めました。


パンフレットが秀逸です。
写真の選び方もいいし、出演者の語りもいい。寄稿文も読ませます。
ぜひお買い求めください。
最後にその中で、本作には端役ながら大いに存在感を発揮した池松壮亮さんの文の一部を引用しておきます。

「今作を観て、はて是枝さんはどこまで行くつもりなのか、はたまた行かないつもりなのか、わからなくなってしまいました。」




補足:中国上映のポスター、素敵です。
   Vin_Moriさんのツイッターより







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Posted by gadogadojp at 10:00│Comments(0)映画
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